月報:2024年2月
私の咳が止まるのと入れ替わるように春一番が吹き荒れた。猛々しいのにあたたかくて不思議な風だ、と毎年のように思う。
この月報のヘッダーは龍が如く8のワンシーン(©️SEGA)だけれど、このゲームが気になっているひとは必ず龍が如く7からプレイしてほしい。理由はきっと、このキャプチャのシーンにたどり着いたときにわかるはずだよ。
■原稿のこと
久しぶりに筆を取り、ジュン茨の短篇を書いた。そのうちどこかに載ると思うので、楽しみに待ってくれるとうれしいな。冬に書いたから冬のはなしです。
小説を書くという行為が本当に久しぶりのことだったのだけれど、案外指が覚えているものだなと思った。理論ではなく感覚で書いていることが功を奏したのかもしれない。
書きはじめるととても楽しくて、もっと長い小説を書きたいなと思う。私はいつもこの楽しさを忘れていて、忘れては思い出すことを繰り返しながら生きている。
書くことでしか塞げない傷がたしかにあって、書くことでしか救われない心がある。私にとっての同人活動はずっと祈りであり、自分のために書いている。自分と、読んでくれるあなたのために。
おそらく、彼らの青春はもはや灰色から程遠い極彩色になりつつあり、絆も愛も彼らのあわいに存在している。
それでも私は祈り続ける。同じステージに立つことの延長線上にふたりで朝食を摂ることが存在しているのであれば、さらにその先には互いに手をつなぐことがあっていいと祈っている。これまでもこれからもずっと、祈っている。
■観た映画のこと
先日、山下敦弘監督『カラオケ行こ!』(2024)を観た。和山やまさんの同名漫画が原作で、脚本は野木亜紀子さんが務めている。
合唱部部長の岡聡実は、大会の帰りに見知らぬヤクザ・成田狂児から声を掛けられる。半ば強制的にカラオケへと連れて行かれた聡実は、狂児から「歌を教えてほしい」と依頼される。彼が若頭補佐を務める組では、組長の誕生日にカラオケ大会が行われるという。そこで「歌ヘタ王」に認定された組員は、組長直々に下手な刺青を入れられてしまう。その事態を回避すべく、中学生とヤクザの奇妙な師弟関係がはじまる。
大変丁寧につくられたことがわかる作品で、とてもよかった。原作は同人誌版しか持っていないのだけれど、映画を見る部のエピソードをはじめとしたいくつかの挿話が映画オリジナルであることはわかる。それなのにまったく違和感はなく、むしろ和山やまさんの絵で見たことがあるような気さえした。
巻き戻すことのできない映画、たった数分間で終わってしまう歌、3年間しかない中学生活、変声期、取り壊される街、ふたりが出会ってからカラオケ大会を迎えるまでのわずかな時間──刹那を示すモチーフが重層的に描かれているのは、野木亜紀子さんのすばらしい仕事によるものだろう。これにより、ふたりの奇妙な関係に青春というきらめきが降り注ぐことになる。
ヤクザと中学生という不均衡な組み合わせは、はじめから緊張感を孕んでいた。
いかにも親しみやすく見える狂児だが、声を荒らげたり暴力を振るったりする一面も当然のように持ち合わせている(これは極道の賛美になりすぎないよう、バランスを取ろうと意図されているようにも感じた)。聡実は中学生らしく怯えながらも、ヤクザという恐ろしい存在に逆らうことはできない。
そのふたりにかすかな信頼が生まれ、親しみに変わり、やがて愛着を持つようになる様子がとても丁寧に描かれていてよかった。言葉によらない演技がとても印象的で、映画で観ることができてよかった。時間経過を部屋の移動で示す演出や、カラオケ大会と合唱祭をオーバーラップさせる種々の演出もたまらなく好きだった。
聡実役の齋藤潤さんは、和山やまさんの作品から抜け出てきたような造形の方だなという印象を抱いた。俗っぽい言葉を選ぶと「作画が和山作品」といえる。演技のうまさも相俟って、まさに聡実そのもののように見えた。
対する狂児役の綾野剛さんは、所作や間の取り方、纏っている空気そのものが和山やまさんの作風に等しいように思えて驚いた。表情は笑顔なのに目が笑っていない、という演技があまりにもうまい。
劇場で楽しめてよかった、素直にそう思える作品だった。
■遊んだゲームのこと
※『龍が如く7』および『龍が如く8』の重大なネタバレを含みます。
待ちに待った『龍が如く8』の発売を迎えて、夢中になってコントローラーを握りつづけていた。たくさんの回り道を重ねて、先日ようやくラストシーンにたどり着くことができた。
本当に本当におもしろかった。良い作品だったと手放しで賞賛することができるし、こうして感想を書いて区切りをつけてしまうことが惜しくさえもある。たくさんの愛のもとに成り立っている作品であり、リアルタイムに触れられた僥倖に感謝するばかりだ。
『龍が如く8』は、龍が如くスタジオが手掛けるアクションアドベンチャーシリーズの8作目にあたる(傍流の作品もいくつか存在するが、ここでは置いておく)。極道の世界をテーマにしており、『龍が如く7』では主人公が交代している。本作では『龍が如く6』までの主人公・桐生一馬と、『龍が如く7』の主人公・春日一番をダブル主人公として主役に据えている。
龍が如くシリーズは0と7のみ、あとは『JUDGE EYES』と『LOST JUDGEMENT』をプレイしている。古田剛志さんの脚本が好きなので、古田さんが深く携わっているであろう作品ばかりを好んで遊んでおり、私はお世辞にもよいプレイヤーとはいえない。
けれども『龍が如く7』の物語が大好きで、結末がいまだに鮮烈に焼きついていたから、本作が発するメッセージを正面から受けとめることができたようには思う。
物語は『龍が如く7』で起こった事件のあとの世界を明確に描いている。春日の部屋にあるふたつの遺影が、前作での不可逆的な喪失を示している。荒川真澄と青木遼──荒川真斗のいない世界でも、春日は生きている。
ただ生きているどころか、荒川真澄の遺志である「極道組織の大解散によって行き場をなくした元組員たちを救う」という理念を継ぎ、ハローワークの職員として社会復帰支援を行なっていた。かつての仲間たちとの間柄も相変わらずのまま、堅気として地に足をつけた生活を送っていた。それがあるとき、とあるバーチャルYouTuberの告発によりひと息に崩壊することとなる。
本作の舞台はハワイであるという触れ込み、春日が全裸で浜辺を彷徨うキャッチーな告知、そして英題が”infinite wealth”であることを除いたすべての情報をシャットアウトしていたため、あの伊勢佐木異人町から物語が始まったことに大変驚いた。沢城は出所しているしどうなっているんだ、と思っていたところで物語は慌ただしく展開し、春日は母親である茜さんに会うため、単身ハワイへ飛ぶこととなる。
茜さんの足跡を追うなかで様々な人物と出会い、ハワイと日本をめぐる大きな思惑に直面し、春日たちはそれに巻き込まれていくこととなる。
メインとなるストーリーラインはシンプルだ。首謀者もわかりやすいため、序盤の展開をやや冗長に感じたこともあった。しかしながら、本作のおもしろさの本質は陰謀をめぐる戦いにあるのではない。
本作のテーマはストレートな人間讃歌であると私は受けとめた。これは前作のラストシーンで荒川真斗が息も絶え絶えに発した「どん底からやり直すか……いいもんだよな」そして「お前は生きろよ、イチ」と地続きのメッセージであり、7と8を貫く透きとおった芯である。
作中で春日が茜さんと再会したとき、「俺を産んでくれてありがとうございます」と伝える場面がある。春日の出生の特殊さもあり、それまでは母親というよりは「尊敬する荒川真澄の愛した人」という捉えかたをしていたのだが、このシーンでは母と子として向き合っていたのがよかったし、生を真っ向から肯定する言葉である「産んでくれてありがとう」をまっすぐ告げている。
7で描かれていたとおり、春日の人生は波乱に満ちている。彼は数えきれないほどの理不尽と苦しみ、悲しみに晒されてきたというのに、その生を手放しに肯定できる。しかしこれまでの物語を一緒に体験してきたプレイヤーにとってはなんら不思議なことではなく、これでこそ春日一番だと思えたのもよかった。
茜さんと一緒に荒川真澄を悼むことでようやく涙を流すことができたのかな、と思うと切ないようなうれしいような奇妙な感情でいっぱいになる。
そしてなによりも語るべきなのは、ラストシーンの春日と英二のやりとりだろう。英二は春日を騙して裏切る人物であるのだが、春日はそんな英二を赦し、出頭を促すことで彼を救おうとする。群衆の悪意に晒されながらも、春日は英二を警察署まで送り届けた。
ここで春日が成し得た「救い」が、『龍が如く7』で荒川真斗を救えなかったこととの対比であることはもはや語るまでもない。英二は下半身不随を装い、春日と真斗の思い出につけこむことで春日の懐に入りこんでいた。
『龍が如く7』において、春日は真斗を兄弟のような存在と捉えながらも友だちにはなれず、彼と一緒にやり直すことはできなかった。失われていく命のぬくもりに絶叫しながら、真斗の身体を抱えて春日は走った。いまだに忘れがたいシーンであり、振り返るだけで涙がこぼれる。
本作では、春日は英二のことを友だちだと何度も繰り返し、彼を背負って歩みつづける。心ない群衆からカメラを向けられ、罵声を浴びせられ、ゴミを投げつけられてもなお、冷静に歩みつづける。
ここで春日は英二を救うだけではなく、自分自身をも救っていたのだろうと思う。真斗を救えなかった悲しみは決して癒えるものではなく、どのようなものでも塞ぐことはできないのだが、「今度は救うことができた、間に合った」という救いにはなる。
このシーンで椎名林檎『ありあまる富』が流れていたのも本当によかった。たまらなくよかった。
価値や富があなたを生かすのではなく、あなたが生きることそのものが価値であり、富である。その価値は決して毀損されるものではないし、またその富も他者に奪われるものではない。
このメッセージが『龍が如く8』のすべてであり、登場人物の在り方と人生を肯定し、そして私たちの人生も肯定してくれる。どんなことがあっても生きつづけるべきであり、どん底からでもやり直すことができる。この視点から見ると、桐生が海老名にかけた「生きてくれ」という言葉が桐生自身に跳ね返っていたことが鮮やかに色づく。彼もまた、海老名を赦すことで自分自身を救っていたのではないだろうか。
山井豊にまつわるエピソードもよかった。彼も複雑なバックグラウンドと感情を有したキャラクターである。唯さんに会うまでは自らの望むものについて確信がなかったのだろうけれど、いざ再会して「ありがとう」と声をかけられたとき、本当に欲しかったものに気づけたのだろう。まるで涙を堪えるように一瞬だけ上を向いた描写がすばらしく、深く印象に残っている。
前作から継続して出演しているキャラクターを含め、本作を構成する人物にはみな人格があり、人生があり、奥行きがあり、血の通った人間であると感じられる。彼らには彼らなりの考えがあるのだけれど、それが一貫しているひともいればかすかな揺らぎを見せるひともいる。
その揺らぎ──自家撞着とも言うべき矛盾──が、いわゆる「キャラ描写のブレ」ではなく人間らしさや成長の証として表出しているのがすばらしい。これは明確に脚本の力であり、製作陣がキャラクターを愛し、大切にしている証左だと感じる。そのことが途方もなくうれしい。
横浜九十九課のふたりの出演も本当に本当にうれしくて、ついゲーム内で駆け回ってしまった。『LOST JUDGEMENT』をプレイしたときには「春日たちもこの街のこの時間を生きているといいな」と思っていたけれど、同じように『龍が如く8』の時間のなかで彼らが息づいていることもうれしい。
いささか散文的にはなってしまったけれど、本当にすばらしいゲームだった。このメインストーリーとスジモンやドンドコ島が同居していることがあまりにもめちゃくちゃだと思うけれど、そこも含めて愛おしい。プレイできてよかった、心からそう思う。
ちょうどプレイ中に若ぬいが発売されたので、終盤は不機嫌そうな若ぬいと一緒にストーリーを見守っていた。若ぬいはなぎぬよりも少し小さい。
それでは、またね。おやすみなさい。