季報:『ガーディアンズ◆アイとラストミッション』、そして愛のこと
※あんさんぶるスターズ!!の『ガーディアンズ◆アイとラストミッション』のストーリーの核心にふれています。
私が楽しく遊んでいるソーシャルゲーム『あんさんぶるスターズ!!』では、ユニット新曲クライマックスイベントというものを順次開催している。「物語はそれぞれの最高潮へ」と銘打たれてはいるものの、ソーシャルゲームという媒体の性質上その変容には限界がある。そのようなことを考えていたからこそ、2023年7〜8月に開催されたDouble Faceのクライマックスイベント『ガーディアンズ◆アイとラストミッション』のストーリーには心底驚いてしまったのだ。
今回のストーリーのあらすじはこうだ。利害の一致から互いに手を取り芸能界の悪を成敗していたDouble Faceが、あるひとりの子どもを保護する。GFKと呼ばれていた男の落胤であるその子ども──Jをめぐり、ふたりは思わぬ騒動に巻き込まれていく。
端的にいえば、Double Faceが解散したことが衝撃的だった。ゲームの内外からの要請があったことは想像に難くないが、それにしても正面から別れを描くとは思ってもいなかった。
それも、ただの別れではない。ひどく愛に満ちたものであったことに驚いてしまった(そもそも『ラストミッション』が愛を主題にしていることはタイトルの区切り方からして自明ではあったのだが)。
私はDouble Faceの彼らについて深い理解はないけれど(ただお話を読むこととキャラクター間にある文脈を正しく理解することは別だと思っている)、三毛縞もこはくさんも愛情についてひどく不器用であると感じている。
三毛縞は正しく愛を贈与できない人間であり、こはくさんは愛を正しく受け取れない人間だ。三毛縞の「ママだぞお!愛してるからなあ!」という言葉で満たされるかといえば首を傾げてしまうし、こはくさんはこはくさんで一方的に庇護されたり、末っ子として扱われることに反発している印象が強い。
そのような彼らが、Jに対して不器用なりに愛情を注ぎ、慈しみ、護り、育て、それと同じくらいの歓びや苦労を受け取って──それに懲りながらも──そのおかげなのか、エピローグで描かれたような別れにたどり着くことができたことが本当によかった。
「行ってらっしゃい」「行ってきまあす」これらのごくありふれたやりとりに、私はこのうえない愛情を感じた。『ラストミッション』のストーリーのなかで何度か語られた「大好き」「愛している」のような直截的な言葉よりもずっと本質的な愛だと思うのだけれど、これは別れと不可分であることにやはり不器用さを感じずにはいられない。
『ラストミッション』のなかでは、Double Face=二面性の名のとおり、放たれた言葉のなかにいくつもの感情が内在しているような場面が散見された。三毛縞の「けっこう大好きだった」に宿る別れを躊躇わない潔さ、こはくさんの「嫌い」に宿るかすかな執着、そして別れのやり取りを模した確かな愛の交歓。
愛を贈与できない三毛縞が愛を贈られる側に回り、同時に愛を正しく受け取れないこはくさんが愛を贈る側に回る。この構図の逆転が、いびつなふたりのあわいにきれいな愛を形づくる。向かいあうよりも背中をあわせることが信頼の証であるとでも語るかのように、ふたりは互いに背を向けて歩き出す。
Xという文字のように、人生のなかでほんの一時期だけ交わったあとは離れていくだけの関係に至上の美しさを感じるから、一生再結成しないでほしい。そして英智とつむぎは一生カラオケに行かないでほしい。
別れといえば、宇多田ヒカルの新曲『Gold 〜また逢う日まで〜』を想起してしまう。金という物質の硬質さとやわらかさを兼ね備えた色とDouble Faceにはなんとなく重なるところがあって、なぜだろう、衣装やMVで印象的に用いられているからかな。ふたりの後ろめたい正義がいつか、思い出話のなかに咲く名もない花になりますように。