月報:2024年4月
春の眠りが生クリームのようにやさしいから、たくさん眠ってしまった。気がつけば白木蓮の季節は過ぎ、桜が街を一色に染めあげていた。花が咲いてようやく、その木が生きているのだと実感する。
いっせいに咲いていっせいに散るのがなんだか怖いけれど、蕾たちがひそひそ話を繰り返しては咲く日を決めているのだとしたらかわいいな、と夢想する。
■最近のこと
SCRAPが提供するサブスクリプションサービス「Mystery for you」を契約した。「謎の定期便」と銘打たれているとおり、自宅で遊べる謎解きキット(いわゆる持ち帰り謎)が届くサービスだ。
「いくつかの質問に答えるだけで3種類の中からあなたにぴったりな謎解きが届く」という素敵な仕組みにもかかわらず、私は3種類すべてが毎月届くプランを契約してしまった。
正確には再契約というかたちになり、私は久しぶりにこのカラフルな箱と再会した。
数年前にも契約したことがあったのだけれど、当時は数ヶ月先の自分が生きているとあまり信じられなくて、実体を持つものがポストに届き続けるサブスクをすべてやめてしまった(他には生花が届くサービスを契約していたと記憶している)。
最近になってようやく、生きることに対して肩の力を抜いて向き合えるようになった気がする。
傷のある硝子は光が乱反射するから美しいとか、インクルージョンのある鉱物ほどきらめきが印象深くなるとか、そんなふうに断言できるほど強くはないけれど、生きているのだから生きつづけると思えるほどには地に足がついた。
先々に楽しみを配置しておくことは、緩やかな延命措置に似ている。それに、解ききれないほどの謎を抱えていたほうが生活はおもしろい。
話は変わるけれど、先日このようなメッセージをいただきました。ありがとう。
このような月報を読んでくれているあなたには説明するまでもないとは思うけれど、「ホログラム」とはかつて発行した二次創作同人誌『ホログラムの海で踊りたい』を指している。不慮の事故で死んだ人物と、その人物が遺したAIと、それを託された人物の物語だ。
数年前の作品にもかかわらず、こうして折にふれては思い出してくれたり、読んだご感想をいまだにいただけることは途方もない僥倖であると感じています。
本作は常にpixivで公開しており、紙の本も少しだけなら在庫があります。
メッセージを眺めながら、ふと思い出すものがあった。2022年に日本科学未来館で開催された『特別展 きみとロボット ニンゲンッテ、ナンダ?』のことだった。
数々のロボットやAIをはじめとしたテクノロジーを通して、人間という存在の本質を探るすばらしい展示だったのだけれど、展示物のひとつにこのような問いかけが含まれていた。
『あなたは死後、あなたの個人データとAIやCGなどを利用して「復活」させられることを許可しますか?』
どきりとするようなこの問いに答えると、一枚のカードを手にすることができる。ドナーカードのような趣のあるそれは、まぎれもない意思表示の証明だった。
私は「許可する」を選択したためこのようなカードを手にしている。
先のメッセージをくださったひとが読んだであろうニュース記事では、「死者をAIで蘇らせるビジネスには、故人本人の同意が得られないという問題がある」と述べられていた。その点では、このDigital Employment After Death──「死後労働」というあたりが皮肉だ──の問いはいずれ無視できないものとなっていくように感じる。
人間は多面体であり、その思考や対話には揺らぎがある。そのため、たとえば息子が故人の父親を「復活」させたとしても、蘇るのは「息子が会いたいと望んだ父親の姿」にすぎないのであって、故人そのものではないと私は考える。
人は相手や場面に応じた振る舞いをする。脳は経験を蓄積し、思考は成長しつづける。「好きな食べ物はなんですか?」という単純な質問であっても、子どものころと大人になってからでは違う回答になるだろう。もしかすると、その日の気分によってさえも変化するかもしれない。
このように曖昧な存在なのだから、「復活した人間」として画面に映り、あるいは声を発するものの正体は「生者の期待」だ。こんな言葉を聞きたい、もう一度話をしたい。そのような祈りのもと、死者は復活を遂げる。もちろんそれによって救われる人がいるであろうことは容易に想像できるから、私は許可(≒賛成)の立場を取ってみた。
私にとっては、AIによって復活した存在はデジタルな幽霊にすぎない(幽霊の正体見たり枯れ尾花であることも意図しつつの考えである)。この世界は生きている人々のものだから、死んでしまったあとには好きにしてくれればいいと思う。
もちろん、この判断も数年後には変わっているかもしれないね。
■読んだ本のこと
※古市憲寿『平成くん、さようなら』の結末にふれています。
古市憲寿『平成くん、さようなら』を読んだ。社会学者である著者による初めての小説であり、2018年下半期の芥川賞候補作品でもある。
本作は、期せずして平成という時代の寵児になってしまった「平成くん」を、彼の恋人である愛の視点から見つめる物語である。平成くんはいかにも時代に沿った容貌をしており、合理的な思考・行動を見せ、性的接触は好まない。彼は平成代表のような文化人として持て囃されながらも、凪いだ態度を取りつづけていた。しかしある日、「平成の終わりと共に安楽死をしたい」と愛に対して告げたのだった。
作中には現代(執筆当時)に存在する固有名詞が無数に登場する。UBER、雑誌『ダ・ヴィンチ』、ポケモンGO、トムブラウン、バーキン、ディオール、ZOZOTOWN。ぎらぎらと輝くネオンのような固有名詞たちは生々しく、物語と現実を強力に接続する力を有している。だからこそ「安楽死が合法化されている日本」という設定がざらりとした異物のように強烈な存在感を放つ。
彼らがいる世界では、比較的簡単に安楽死を選ぶことができる。いくつかの手続きと診察をパスしてしまえば、容易く人生を終えることができる。
だからこそ、愛は「なぜ平成くんは安楽死をしたいのか」という問いと向きあいつづけることになる。死は万人においてあらかじめ確約されたものであるのにどうして、と彼女は考えつづける。
物語の終盤で、平成くんは安楽死を望む理由を明かしたうえで、愛にあるものを贈って姿を消してしまう。それは、平成くんを模した人工知能を搭載した1台のスマートスピーカーだった。Google Homeのようなそのデバイスは、膨大な学習データをもとに「平成くんらしい」返答をする。ときには人間の平成くんが遠隔で返答をすることもあるそうだが、それを明確に判別する術はない。──こうして平成くんはある意味で不老不死の存在となり、愛には別の、きちんと肉体をもつ恋人ができた。
私はあまり純文学を好んで読まないのだけれど、この作品は本当に好きだなと思った。死生観について語ることは、論理や感情の深いところに根ざすなにかにそっと触れるような気がして躊躇いを覚えるのだけれど、小説を通して私に内在するそれらを問い直すことは快い体験だった。
純度の高い思考、鬱屈した感情、不快感、タブー、生々しい苦しみ。それらを作品に昇華し、エンタメとして世に送り出すことができるのが純文学というものなのかもしれないね。
このジャンルに属する作品を読むたびに、まるで鏡のようだと思う。フィクションの世界を眺めていたはずなのに、いつの間にか自分自身の心の内側を覗いている。
先ほども『ホログラムの海で踊りたい』について触れたけれど、この小説を公開したときにいただいた感想のなかに『平成くん、さようなら』を思い出しましたというメッセージがあった。そのことはずっと頭の片隅にあったのだけれど、先日ふらふらと書架のあいだを彷徨っていたときにぱちりと目があった。およそ5年越しに、背表紙に呼ばれたような気がした。読んでみればなるほどね、と腑に落ちた。
人間は不完全な存在だから、肉体と魂で構成されている。たとえ肉体が滅んだとしても、誰かがそのひとのことを覚えていて、彼の思想や哲学を受け継いでいるのであれば、魂までもが滅んだとは言いがたい。
死というものは二度訪れる。一度目は肉体が滅んだとき。そして、二度目は誰からも忘れ去られ、そのひとの思想や哲学が朽ちて消えてしまったときだ。二度目の死を迎えることで、人は本当の意味でこの世を去るのではないかと私は考えている。
つまり私は肉体よりも魂を重んじていて、思想や哲学こそがそのひとの本質だと捉えているのだな、とはたと気づく。
『平成くん、さようなら』でも肉体と魂の区別は意識されていて、前者は性交渉に関する話題をもって、後者はスマートスピーカーの存在によって語られている。最終的に、愛はスマートスピーカーの電源を抜き、機械に花を手向ける。彼女は平成くんの肉体と魂の両方を愛していたのだろうけれど、彼女に必要だったのは温度のある命だったのかな、とぼんやり考えた。デジタルな幽霊は心を暖めてくれたとしても、いのちの温もりを分け与えてくれることはない。
■遊んだゲームのこと
※『ペルソナ3』の物語の核心にふれています。
先日、『ペルソナ3リロード』をクリアした。本作は2006年にアトラスから発売されたRPG『ペルソナ3』のリメイク版だ。まさにリロード──再装填するように、グラフィックを一新し、いくつかのシステムとシナリオが追加されている。このうえなく素晴らしい、完璧なリメイクだと思う。
エンディングを迎えたとき、すべてを知っていてもなお涙がこぼれるのを止めることはできなかった。「約束の日」には間に合わなかったけれど、桜が舞う季節にクリアできてよかったと心から思う。
私はオリジナル版、そしてPSPへの移植版である『ペルソナ3ポータブル』をプレイしているため、この物語にふれるのはこれで3回目となる。はじめて遊んだときには年上だったキャラクターたちがいつの間にか年下になり、なんだかくすぐったいような気持ちになった。
起動したときに感じたのは、なつかしさではなく新しさだった。記憶の中にあるものよりもずっと明るくて大きな月が彼らの世界を照らしていて、街もなんだか広く感じられた。以前よりもずっと表情豊かになったような気がする仲間たちとともに、私は濃密で短い一年間の旅をはじめた。
物語の大筋はオリジナル版から変わりないのだけれど、細かいエピソードや台詞、演出がいくつも追加されているような気がする。最後にプレイしてからかなりの時間が経っていてあまり覚えていないのだけれど、昔はもっとゆかりや順平のことを遠くに感じていたように思う。
私自身がひどく幼かったこともあり、初めてプレイしたときには特別課外活動部のみんなが抱える感情や発する言葉、起こす行動の理由をうまく理解することができなかった。この作品はしばしば「パーティメンバーがギスギスしている」と揶揄されるが、まさにそのとおりだと感じていた。
しかし、改めて『ペルソナ3リロード』をプレイしてみると、ひとりひとりが抱える苦しみ、接してきた死、そしてそれをどう乗り越えたかが明示的に描かれていることがわかった。
それぞれが異なる思想とバックグラウンドを持っているからこそ衝突し、時には軋轢を生み、それでも正面から向き合って言葉を交わして手を取り合うことを繰り返す。こうして、たまたま能力に目覚めてしまったから集められた人間たちが、一年かけてゆっくりと仲間になっていく物語なのだと、ようやく理解することができた。みんなに寄り添うことができてよかった。うれしかった。
特にゆかりの精神的な強さが印象的だったな。昔はその言動がヒステリックに感じられて苦手だったのだけれど、決してただ感情的なだけではなく、不信や不満を正面から問いただすことができる強さをもった女の子なのだと知ることができてよかった。父親を喪い、母親への信頼も失い、ひとりで立ち続けなければならなかった彼女の境遇を思うと、なんて強いんだろうと思わずにいられない。
物語の終盤の、それぞれの死生観を吐露するような場面においても、彼女はまっすぐに逃げない意思を表明していた(この態度と順平の「怖いよ」は対比的に描かれているのだと思うけれど、私はこの順平の「弱さを剥き出しにできる強さ」も好ましく思った)。
オリジナル版における感情表現が編み物だとしたら、『ペルソナ3リロード』は織物のようにきめ細かい。美鶴とゆかりの関係性の変化や、荒垣先輩の死がもたらした影響、チドリとの出会いが順平に与えたものが本当に丁寧に描かれていて、とにかくうれしかった。うれしいという言葉しか見つからないよ。
アイギスの永劫コミュも相変わらず素晴らしい内容で、機械である彼女が挫折と疑似的な死を経て、そこから心を、ひいては生命までもを獲得していく過程を丁寧に描いていて好きだ。グラフィックの美しさが些細な表情の変化を克明にとらえていて、シナリオの奥行きを深めていたように思う。これはラストシーンからエンドロールに至る一連のシークエンスにおいても言えることであり、屋上から見る桜とアイギスの優しいほほえみがとにかく美しかった。3回目のプレイになるけれど、私はやっぱり「目を閉じる」を選ぶことはできなかったな。
戦闘システムも美しく楽しいものに変化していてよかった。戦闘が苦手なのでテウルギアの存在がとにかくありがたく、また演出のひとつとしてもとてもよかった。ダウンを取るときのカットインも格好良くてすてきだったな。
ただ、タルタロスだけは相変わらずで笑ってしまう。もちろんグラフィックは美しくなっているし、いくつかの追加要素はあるのだけれど、本質的には進歩していない。薄暗く、単調で代わり映えのしない塔を登る体験は、過去の私と現在の私をつないでくれたような気もした。
単調な探索を繰り返すなかで、不意に想起した記憶があった。
オリジナル版をプレイしていたとき、私の祖母が亡くなった。はじめて接した身内の死であり、喪服が制服で構わないくらいには幼かったから、どのように受け止めていいかわからなかった。
祖母を看取った夜、家族は寝ずの番のために残ることになり、さまざまな事情のもとで私だけが帰宅することになった。しんと静まり返った家のなかで、浮遊するような足取りのままなんとなくテレビの前に座った。腫れぼったくなった瞼を閉じたり開いたりしながら、いつものようにペルソナ3を起動した。私はタルタロスに入り、フロアを探索し、シャドウを倒し、階段を見つけては登ることを繰り返した。
決して祖母の死を悼んでいなかったわけではない。ただ、どうしたらいいのかがわからなかった。人が亡くなるということの意味を正面から考えることができなかった。あのときの私は、タルタロスの薄暗さと単調さに救われていたのだと思う。ひたすらに敵を倒して、上を目指していけばいい。そのわかりやすさがありがたかった。
一時間ほどそうしていたら落ち着いて、ゆっくり眠ることができたのを覚えている。
それでもタルタロスはつらい!『ペルソナ5』を経験してしまうと登るのがつらい。つらすぎる。あの単調さにはある種の儀式的な要素を感じなくもないけれど、やっぱりつらい。令和のこの世であってもタルタロスは苦行なんだなと一周回っていとおしくもなる。
ただ、そのマイナスが気にならないほどにはすばらしい完成度のリメイクだったと断言できる。大人になってから改めてふれることができてよかった。かつては見えなかったものが見えるようになると、生きつづけることも悪くないと思えるよ。
それでは、またね。おやすみなさい。