月報:2023年11月
寒いね。ひとつ雨が降るたびにぬくもりが洗い流されて、無駄が削ぎ落とされた冬が来る予感がする。なんだか風邪ばかり引いていた月でした。
■「永遠の都ローマ展」のこと
某日、東京都美術館にて「永遠の都ローマ展」を観た。
ローマ美術といえば、その後の時代に大いなる影響を与えた存在という印象が強い。およそ2000年ほど前に生み出された美が脈々と受け継がれ、生き残り、あるいはその魂が様々な文化に組み込まれ、いま/ここに展示されているのだと思うと不思議な心地になる。
美術は人間の営みによって作りあげられたものだから、美術品と向き合うことは歴史に触れることに等しい。ひとつの時代が独立して存在していることはなく、必ずその前後には別の時代が存在している。美術も同様で、その前後の文化になんらかの影響を受け、また影響を与えている。それが2000年間も続いているだなんて想像もできない。
展示物は彫刻、絵画、建築と多岐にわたる。特に立体物の存在感がすばらしく、《コンスタンティヌス帝の巨像の頭部(複製)》、《コンスタンティヌス帝の巨像の左手(複製)》、《コンスタンティヌス帝の巨像の左足(複製)》には圧倒されてしまった。当然ながら当時はひとつの像として存在していたのだろうから、完全な状態での威圧感は凄まじいものだっただろう。
巨像の左足は人間の身長よりも大きく、これを造らせることができた権勢の絶大さを感じずにはいられなかった。そして、巨像を包み込むように存在していたであろう都市の大きさのことも。人間の営みがあって都市が造られたことは自明だが、ローマにおいては先に都市という生きものが存在していたのではないか、などと夢想してしまう。それほどまでにローマという都市が内包していたものは果てしない。
本展のもうひとつの見どころは音声ガイドだ。ナビゲーターを諏訪部順一さんが、ナレーターを早見沙織さんが務めている。諏訪部さんのやわらかく、それでいて毅然とした声を聞きながら眺める展示の素晴らしさは筆舌に尽くしがたい。
ありがたいことに、会期中であればスマートフォンアプリ上で音声ガイドのデータを購入することができる。会期が終われば聴くことはできなくなってしまうようだが、会場に足を運ぶことができなくでもガイドを聴くことができる。私はたまに、眠る前に聴いている。
凪砂くんにも美術展の音声ガイドの仕事をしてほしいな。
■箱根旅行と人生の灯台のこと
某日、箱根の温泉旅館を訪れた。箱根という街に足を踏み入れたのは初めてで、その賑わいについ浮き足立ってしまった。
友人たちと持ち寄ったマーダーミステリーに興じ、じゃれ本(変則的なリレー小説のようなアナログゲーム)を遊び、夜になればみんなで大きな湯船に浸かる。誰かと話をして笑っていたときも、沈黙を共有しながら同じ歩調で進んでいたときも、すべての瞬間が愛おしかった。贅沢でうれしい時間が短い秋を駆け抜けていくのを感じていた。
私は朝型であるため、旅行先であっても早く目を覚ましてしまう。今回もその例に漏れなかったため、また友人たちが寝静まっている時間にそっと部屋を抜け出した。他の部屋の宿泊客も眠っているのか、旅館そのものがしんとした空気に包まれていた。
大きな庭園へ続く扉を開けても、私ひとりしかいなかった。光は朝の色をしているのに、風からはかすかに夜の匂いがした。
友人たちとの旅行という共通の思い出のなかに、私ひとりだけの記憶があるとなぜか落ち着く。足音を殺して部屋に戻ったとき、妙な達成感が私の胸を満たしていた。
かけがえのない時間を過ごしているとき、いつかこの瞬間を懐かしむことになるだろうという予感が脳裏を駆けめぐる。まだその時間が終わる前から、これが大切な思い出になるであろうことを確信しているのだ。
このような思い出たちは灯台のように点在している。暗い夜の海を漕ぐ人生のなかで、ふと振り返ったときに点々とあたたかい光が灯っているのだ。それは今回の温泉宿の明かりであったり、いつかの合宿の蛍光灯であったり、学校祭で見た花火であったり、もう会えない友人たちとの食事の場の間接照明であったりする。
現在地点から遠い光ほど、星のようだと思う。細部を思い出せない記憶においては、美しいシーンばかりがまなうらに映る。もう会えない人たち、会わない人たち、そして手の届かないところに行ってしまった幼さが夜空に点滅している。
そのくらいの明るさになってくれるから、喪っても生きていけるのだ。灯台ばかりだとあまりにも眩しすぎる。
帰り道に、友だちと「来年は熱海がいいね」と語りあった。航路の先にぼんやりとした明かりが灯ったのを感じて、またしばらくこの海を漕いでいけると思った。
■紅葉と『白鷺に紅の羽』のこと
箱根を訪れたときは、紅葉がぽつぽつと始まったばかりだった。それでも紅色や黄色の印象は強烈で、私は『白鷺に紅の羽』のことをゆるやかに想起していた。
『白鷺に紅の羽』は、かつてガラケー向けアプリとして配信されたアドベンチャーゲームシリーズ『探偵・癸生川凌介事件譚』の4作目にあたる。
この癸生川(きぶかわ)シリーズは、そのうちのいくつかの作品を『パラノマサイト FILE23 本所七不思議』のシナリオライターである石山貴也さんが手がけている。
私はシナリオライター単位で作品を好きになることがままあるため、『パラノマサイト』の縁から癸生川シリーズをプレイした(現在は『あねの壁』をプレイ中である)。そのなかでも特に好きなのがこの『白鷺に紅の羽』だ。
本作は、シリーズのレギュラーメンバーである白鷺洲 伊綱(さぎしま・いづな)の過去にまつわる物語だ。この作品だけでも大変おもしろいのだが、シリーズ作品を順番にプレイして彼女の人となりを知っておいたほうがよいと思う。
本作の視点人物は、楓という記憶喪失の女性だ。紅葉する山林のなかで目覚めた彼女は、大鳳院 伊綱(たいほういん・いづな)と名乗る女性に声をかけられ、やがて奇妙な遺産相続事件に巻き込まれることとなる。
もともとはガラケー向けのアプリということもあり、いかにも短編らしいボリュームの作品となっている。早い人であればクリアまでに2時間もかからないはずだ。
そのうえ容量に厳しい制約があったのだろう、グラフィックも音楽も、テキストの文字数さえも最低限のものとなっている。それなのにこの物語は途方もなく美しいのだ。
すべての真相を知ったあと、私はもう一度はじめからこのゲームをスタートした。すると、初見のときには軽く流していた会話のひとつひとつが違う色合いを帯びていることに気がつく。まるで、青々とした木々がいつのまにか紅葉していたかのように。
「1年間、幸せに過ごせましたか?」──この問いが存在していたこと、そして彼女がどう答えたのかをあらためて目にしたとき、私は人目も憚らず涙してしまった。
これほどに美しい構造の物語が、厳しい制約のもとでつくられていることに深い感動を覚えた。きっと、これからもこの季節を迎えるたびに思い出してしまうだろう。
石山さんのシナリオは、プレイヤーへの信頼とキャラクターへの誠実さを感じさせる。『白鷺に紅の羽』の真相を明言しない、けれど丁寧に紐解けばすべての謎が解明される構造は独特の余韻を有していて、それを味わえるのはプレイヤーを信頼してくれているからだと実感する。
癸生川シリーズのなかでは『永劫会事件』も好きなのだけれど、中心に据えられているテーマが重いがゆえに軽々しく勧めることができない。人によっては、そのテーマに触れることによって深く傷つくかもしれない。
それでも、決してプレイヤーを傷つけようとしてそのテーマを扱っているわけではなく、その痛みや苦しみを透明にはさせまいという意思に基づいているように思えるのだ。もしかしたら誰かの救いになるかもしれない、そんなかすかな祈りのようなものを感じる。
センシティブな話題を避けるのではなく、誠実な手つきで正面から向きあうことは並大抵の力量でできることではない。石山さんはすばらしいシナリオライターだと思うし、奇跡のようなバランスで成り立つ作品たちを遊ぶことができる僥倖に感謝するばかりだ。
少しでも興味を抱いたならぜひ『仮面幻想殺人事件』から順番にプレイしてみてほしいな。私は『白鷺に紅の羽』『対交錯事件』『五月雨は鈍色の調べ』そして『永劫会事件』がとても好きです。
それでは、またね。おやすみなさい。