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季報:映画『きみの色』と自分自身のうつくしさを照らすこと

※映画『きみの色』のネタバレを含みます。

 先日、山田尚子監督『きみの色』を観た。監督を山田尚子さん、脚本を吉田玲子さん、音楽を牛尾憲輔さんが担当している、完璧な布陣によるオリジナルアニメーション映画だ。
 観終わったあと、しばらく呆然としていた。この作品について語ることばをずっと探して、うまく見つからなくて、今でも探しつづけている気がする。
 あらゆる創作物は受け取るタイミングによって印象が変わるものだけれど、いまの私にはこの作品が必要だったと確信した。心の隙間をそっと埋めてくれるような、しなやかな作品だった。


 ミッションスクールに通う日暮トツ子は、他人がまとう「色」を視ることができる。さまざまな人々の色にうつくしさを感じながらも、同じ高校に通っている少女・作永きみの色にとりわけ強く惹かれていた。
 ある日、トツ子はきみが高校を辞めたことを知る。彼女の足跡を追い、小さな古書店へたどり着く。たまたまそこに居合わせた少年・影平ルイに声をかけられたことをきっかけに、三人はバンド活動をはじめることになる。

 秘密や悩みを抱えた少年少女が出会い、音楽でつながり、ささやかな絆を手に入れる。それだけのありふれたストーリーなのに、本当に美しくてたまらなかった。『リズと青い鳥』にもみられた繊細な描線と、トツ子が視る「色」の研ぎ澄まされた表現、光と季節のうつろう様子が画面を満たし、瑞々しいきらめきがあちこちで跳ねていた。


 本作の主題について考えたとき、まず思い当たるのは「光」だ。主役の三人にはそれぞれイメージカラーが与えられていて、光の三原色を想起させる。光も、音も、感情も、すべて波だ。光の波長によって、ひとが認識する色は異なる。光がなければ色もないということは、暗闇を見ればあきらかなことだ。

 この物語において、三人はそれぞれに悩みを抱えている。トツ子は「色が視えること」、きみは「学校を辞めたことを祖母に言い出せないこと」、そしてルイは「医者の道を運命づけられながらも、音楽を愛していること」を秘密にしている。
 異なる色をもつ三人が出会い、言葉を交わし、同じ時間を過ごす。まるで互いの光に照らされるようにして、彼らは困難を克服、あるいは受け入れる勇気を手に入れる。光の三原色は混ざるほどに明るくなり、やがて眩しく透明な光になる。

 思春期をとうに過ぎた私から見ると、きみとルイの悩みは大人にとっては取るに足らないものである。彼女/彼が考えている以上に、周囲の大人は懐が深く、そして彼女/彼を愛している。最後のライブシーンでも描かれていたように、秘密を吐露したところでその愛情は変わることがない。

 しかし、このふたりの悩みがバンドメンバーをつなぐ「秘密」として機能することが、作品世界のリアリティを逆説的に補強しているように感じられた。青春時代を過ごしているからこそ、ちっぽけな悩みが世界のすべてを埋め尽くしているかのように錯覚し、思いつめることがある。一方で、たった一か月越しの再会を全身で喜ぶこともできる。そのゆらぎが愛おしくてたまらない。


 三人の秘密のなかで、トツ子の悩みだけはやや異質なものだ。他人の色は視えるのに、自分の色が何色なのかわからない。色について他人に話しても怪訝な反応を返されるばかりで、ひた隠しにするようになった。水彩調の画面で描かれる彼女の視界はとても美しいのに、かすかな悲しみに満ちていた。
 多くのひとには見えないところに色が視えるといえば、共感覚を想起する。有名な例でいえば「特定の数字と色が結びついていて、複雑な計算が直感的にできる」といったものだろう。一見、トツ子も共感覚者のように思えるのだけれど、本質的にはそうではないと考える。

 彼女が視ている「色」の正体は、強すぎる感受性が言語ではなく視覚的に発現したものだと私は解釈している。
 トツ子はひとのうつくしさ(表層的なものではなく、もっと本質的なもの)やすばらしさ、あたたかさを鋭敏に感じ取り、それを言葉ではなく「色」として見出しているのだろう。

 トツ子の自己肯定感が低いことは、物語のはじまりから暗示的に描かれている。幼いころに習っていたバレエはうまくいかず、学校でもやや浮いた様子を見せている。彼女はひとりで教会に通い、祈る。
 そんなトツ子がバンド活動をはじめて、曲を作り、学園祭で披露する。そのプロセスを通して健全な自己愛を獲得したことは想像に難くない。

 ラストシーンで、彼女は「いつか踊りたい」と憧れていたジゼルを踊る。物語の中盤ではきみとルイの前でさえ踊れなかったその曲を、無数の花々に囲まれながら踊っていた。そのなかで、彼女は自分の色をはじめて視る。
 それが「バンド活動を通して自分のことを好きになれたから、自分のうつくしいところに気づくことができた」という表現だった、と解釈するのは私の祈りにすぎないのだろうか。


 バンド「しろねこ堂」の楽曲も本当によかった。なかでも『水金地火木土天アーメン』が好きだ。歌詞に三人の名前が含まれているから、三人の曲なのだという実感がある。ステージで披露するシーンではぼろぼろと涙をこぼしてしまった。
 銀幕を見つめながら、重たいセーラー服が私の身体になじんできた頃の感触を思い出していた。当時よく聴いていた相対性理論のギターの音が脳裏で鳴り響き、きみの演奏と重なる。
 どうしてこんなことを思い出してしまうのだろう。そう思っていたら、エンドロールで永井聖一さんの名前を見つけて、電撃にうたれたような衝撃を覚えた(永井さんは相対性理論のギタリストである)。特に音楽に造詣が深いわけでもないのに、好きな音だけはこのからだにしっかりと刻まれているようだ。


 そのほか、いくつものシーンが心に深く刻まれている。枚挙にいとまがないほどだけれど、やはり「合宿」のシーンとライブシーンは出色の出来だと思う。
 ババ抜きの最初の手札みたいにばらばらだった三人の仲が次第に深まり、寒い季節になるころにはすっかりあたたかい絆に変わっているところがすばらしい。台詞で語りすぎない脚本が、映像と音楽に感情表現をしっかりと託していて、より印象的になっていたように感じる。

 三人の物語だからこそ、安易な恋愛に展開しなかったのがよかった。恋愛感情と解釈できそうなシーンもあったけれど、それが男女間のものであれ、同性間のものであれ、恋愛に至ってしまったらこの透明さは失われてしまったと思う。
 その視点でいえば、影平ルイというキャラクターのバランスの絶妙さが際立つ。彼の親愛の表現は真摯で、柔和で、包みこむようにやわらかい。とても良いキャラクターだと思います(出来心でぬいをお迎えしてしまった)。

 映画を観ているあいだ、十代のころにだけ有していた霊感のような、一瞬だけ果ての景色を見通せるような感覚がふたたび訪れたような気がした。
 私も、いくつもの光を眩しく思いながら生きてきた。こうなりたいという憧れの光が私を照らして、波のようにゆらゆら揺れながら歩いてきた。私にも、私の色はよくわからない。それでも、もしかすると私の放つ光はたしかにあって、誰かを明るく照らしているのかもしれないね。

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