月報:2024年8月
夏だけがぽっかり浮かんで見える。季節には連続性があるはずなのに、夏だけが突然現れたかのように異質だ。
夏に参っています。暑い。溶ける。じりじりと灼かれるたびになにかが削り取られていく。強大なエネルギーを持つ夏と根比べをしている心地になる。参りました。そう両手を上げてもなお、夏は続いていく。
■「HIKARU UTADA SCIENCE FICTION TOUR 2024」東京公演のこと
※具体的なセットリストには言及していません。
私にとっての音楽の神さまはふたりいる。やくしまるえつこと宇多田ヒカルだ。彼女たちの音楽は私の人生にずっと寄り添って、光をもたらしてくれる。まるで未来をすべて見通したみたいに歌うから、ほんとうに神さまなのだと思う。
先日、「HIKARU UTADA SCIENCE FICTION TOUR 2024」東京公演に参加した。とても暑い日で、白昼夢を見るようにくらくらしながら会場へとたどり着いた。入場ゲートを通り抜けてもなお、当選したことが信じられなかった。座席がひとつ、私のために用意されていることが実感できなかった。
物心がついてからはじめて聴いたのは宇多田の音楽だった。運転席に座る母から「好きなのを選んでいいよ」と言われて、手に取ったのが宇多田の曲が入ったディスクだった。
タイトルも歌詞もひとつもわからなかったけれど、そのリズムとメロディがとてもうつくしいことだけは理解していた。カーステレオから響く宇多田の声を聴きながら、今よりもずっと低い目線から窓の外の夜を眺めていた。鼓動のリズムがゆっくりと同期して、宇多田の音楽が血液に乗って全身をめぐっているような気がした。
あれから数え切れないほどの年月が経ったけれど、まだ私のからだは彼女の作る曲のリズムを刻んでいる。
私はプレミアムチケットに当選しており、座席は最前列だった。座ったときには震えがとまらなくて、近くの人々とよろこびを分かちあった。これを書いている今でも信じられない。
開演直後のぴんと張りつめた空気を、凛とした声が切りひらいていく。空気がふるえて、音の波が私の心をさざめかせる。宇多田はさまざまな色のライトを浴びて、白い衣装がいろいろな世界を映し出した。
ことばにできない感傷はどう記録したらいいのだろう。
たくさんのことを感じて、感じるよりも先に涙をこぼして、いろいろな景色が走馬灯のように脳裏を駆けめぐった。歌う姿はほんとうに眩しくて、綺麗だった。うれしかった。同じ時間を共有していることが信じられなかった。目の前の光景がすべて、うつくしいフィクションに見えた。そのことをどう書き残せばよいかがわからない。
それでも、すべての情動を正しく留めておけなかったとしても、私はきっとこの日のことを生涯忘れることはない。そう確信している。
長く短い公演のあいだ、私はずっと祝福されていた。直に聴く宇多田の声は鋭いのにやわらかくて、透きとおった光だった。矢のように放たれて、私の身体を通りぬけて、どこまでも響いていく。それはたしかにひとつの奇跡だった。生きていてよかったと、あざやかに跳ねる心臓の鼓動がそう叫んでいた。
かつて大好きだった女の子も宇多田を心底愛していた。彼女はすべての人間に対してうっすらとした諦めを抱き、同時に興味を感じているひとだった。みなと好意をやり取りしながらも誰のことも愛していない、そんな彼女の例外が宇多田だった。
彼女の部屋は絵の具とキャンバスといろいろな瓶が散らばっていて、そのまんなかで私は「Goodbye Happiness」を聴いていた。彼女はよく「27歳になったら死んでもいいかな」と零しては笑っていた。私はその横顔に見とれながら、そんなこと言わないでよ、と泣きそうになりながら言った。
今は夢のなかでしか会わない関係になったけれど、彼女が27歳を迎えて、その年齢が過ぎてもなお生きているであろうことを私は知っている。宇多田の歌声に涙をあふれさせながら、彼女もこのツアーのどこかでこの音を聴いていてくれたらいいな、と思った。私は生きていてよかったと思ったよ。彼女もどうか、生きていてよかったと思っていたらいいな。
会場を出たとき、外はまた明るかった。全身で音楽を浴びたからだはじんじんと熱を帯びていた。良い夜を、とささやく宇多田の声がよみがえる。久しぶりによく眠れるかもしれない、そう思いながら渋谷の街を歩いていた。どこまでも歩いていける、生きていける。まぶたのうらではやさしい笑顔が明滅し、耳の奥ではずっと祝福が鳴り響いている。
■他人の日記のこと
真夏の下北沢を歩いた。うんざりするほど暑いけれど、穏やかな街並みはいかにも平熱そうな顔つきをしていた。下北沢という街を訪れるたびに、なんだか大学のおもしろい部分だけを抽出して街じゅうにばらまいたような空間だなと思う。
朝の街はしずかで、時おり散歩するいぬとすれ違った。「ここがわたくしの住む街でございます!たいへん歩き甲斐のある街でございますよ!」と誇らしげに鼻を鳴らす姿に感銘を受け、私も歩くことを楽しもうと思った。
細い道を抜け、家屋なのか店舗なのかわからない建物が並ぶ道を通り過ぎ、ついに目的地にたどり着く。日記専門店の「日記屋 月日」さんは朝のひかりのなかでひっそりと佇んでいた。
このところ、私はエッセイを好んで読んでいる。書籍に限らず、インターネット上にあふれる他人の日記を読み、暮らしの断片にふれることで奇妙な安心感を得ている。この世界にはあきれるほどにたくさんの人が暮らしていて、それぞれの人生を過ごしている。その事実によって、私が感じる孤独がなんだか豊かなものであるように感じられるのだ。
私が本を読むさまを、友だちは「水を飲むみたいだね」と喩える。ジャンルを問わずにするすると読み進める姿をそう評してくれたのだと思うけれど、さすがに調子の悪い日には読めるものと読めないものがある。どん底にいる日にはエッセイしか読めなくなるから、真に水だといえるのはエッセイだけだ。
最近はくどうれいんさんのエッセイが特にお気に入りで、それはもう、水のようにごくごくと読んでいる。
そのようなわけで、もっと日記を読みたいと思って訪れたのが「日記屋 月日」さんだった。凛とした居住まいの店内に足を踏み入れると、数々の日記たちが私を出迎えてくれた。ずらりと並ぶというよりは、ぎゅうぎゅうになりながら座っているように見える。
いちばんのお目当ては『15人で交換日記をつけてみた』という本だった。最近、知人と交換日記をはじめたこともあり、暮らしや人生の断片を手渡しあうことに強い関心を抱いている。
このお店がかかわっている本ということもあり、わかりやすい場所に並んでいてほくほくする。手に取って、ZINEやリトルプレスがまとう独特のなめらかな雰囲気に魅せられた。
荷物を増やしてはならないと己に厳命していたものの、もうひとつ……とお菓子に手を伸ばすように、ほかに2冊ほど購入してしまった(私は図書館でも同じようなことをして、友だちに呆れられる)。
お店を出ると、熱気がぶわりと吹きつけた。ずっしりと重い紙袋を提げて、ようやく目覚めたような街をひたすらに歩く。紙袋のなかにもだれかの人生の断片が詰まっているのだけれど、私が通り過ぎる窓の向こうにもまた、だれかの暮らしが存在している。
この世に存在するすべての書物を読むことが不可能であるように、私は私と出会ったひとの人生しか知ることはできない。その限られた出会いが興味深く、すばらしいものでありますように。そう祈りながら、私はこの日記を書いている。あなたが読むこの日記があなたにとっての水であったならば、どんなにうれしいことだろう。
■遊んだゲームのこと
先月の上旬ごろまで、Steamサマーセールが開催されていた。Steamというプラットフォームでは定期的にセールが開催されているのだけれど、サマーセールは特に大規模なものらしい。
値引きの表示が無数に躍るウィッシュリストを眺めながら、私もいくつかのゲームを購入した。楽しみにしていた新作も購入し、デスクトップには積んでいるゲームのショートカットアイコンがずらりと並んでいる。その存在感に気圧されながらも、もう少し買っておけばよかったかな……と思ってしまうのだから不思議だ。
先日、購入した作品のうちのひとつである『Hookah Haze』をクリアした。綺麗にまとまった素敵な体験だった。
『Hookah Haze』はACQUIREが開発し、Aniplexよりリリースされているアドベンチャーゲームだ。店員として客との交流を楽しむ、いわゆる『VA-11 Hall-A』ライクのゲームであり、どちらかといえばビジュアルノベルとしての側面が強い。
『VA-11 Hall-A』を心底愛しているので、後発作品もそれなりに遊んではきたけれど、今ひとつしっくりくる作品には出会えていなかった。しかしながらこの『Hookah Haze』は設定、キャラクター、システムをうまくまとめており、全体のプレイ時間に対する満足度が非常に高かった。
主人公の炭木トオルは重い病に冒されている。患者の最後の願いを叶える制度を利用して、彼はシーシャ屋を開くことを選んだ。そうして生まれた秋葉原の店「Hookah Haze」で働くなかで、彼は3人の女性と出会い、彼女たちの内面に少しずつ触れていく。
シーシャ(水たばこ)を題材にしたゲームはめずらしいのではないだろうか。客の好みにあわせて香りを調合し、炭の量を調整する。カクテルやコーヒーを作ることによく似ているけれど、どことなく浮世離れした奇妙な雰囲気を醸し出している。完成したフレーバーを客が吸うとき、表現しがたい気怠さのようなものが画面を満たしていく。それがとても心地よい。
本作には3人のヒロインがいて、ヒロインごとに3エンドが用意されている。それに加えて誰のルートでもないBADが2エンド、そしてTRUEエンドの計12エンドで構成されている。このことからもわかるとおり、物語は各ヒロインの内面に深く踏み込んだものとなっている。
この店に通う女の子は、みながなにかしらの問題を抱えている。彼女たちの繊細な悩みにふれる場として、シーシャバーは相応しいものであるように感じた。吐き出す煙とともに紡がれるかすかな言葉を拾い、苦しみにそっと寄り添う。そうして築いた信頼関係が性愛に展開するのではなく、親愛や家族愛、あるいは尊敬へと転じていくところも好ましかった。
『VA-11 Hall-A』では客の事情にあえて深くは踏み込まないことによる世界の広がりがあったけれど、本作では明確にこの店を通して女の子たち、ひいてはトオル自身の人生が変わる物語となっていたところもよかった。
物語だけではなく、音楽やUIもとてもよかった。特にUIとキャラクターモーションのシナジーがすばらしい。静止画ではわかりづらいけれど、キャラクターがほんとうによく動く。表情も豊かで、感情の移ろいにあわせてくるくると変化するさまに夢中になってしまった。
カラフルなネオンで区切られた画面もうつくしい。女の子が吐き出した煙が枠を通りぬけてテキストウィンドウにまで流れたとき、ほう、と感嘆の息をもらしてしまった。思わずうっとりしてしまう。
私もシーシャを吸ってみたいな。カフェインとアルコールを毒と認識するこの身体にとってはニコチンやタールなんてもってのほかだろうけれど、それでもあの気怠さと落ち着いた雰囲気にふれてみたい、そう思わせる魅力のあるゲームだった。
それでは、またね。おやすみなさい。