月報:2024年6月
浴室に、寄る辺のない夜にだけ使うシャンプーとコンディショナーを置いている。それらはペトリコールという、雨の香りの名をもつ。このふたつで一日の澱を洗い流すと、雨の日の土と、木々と、花の香りに包まれる。
世界に対してチャーミングな嘘をついている。晴れの夜にも雨を連れてくることで、穏やかに眠れるような気がした。いつかボディソープも置けるようになったら、いよいよ雨に溶けることができるかもしれない。
■最近のこと
先日、第171回直木三十五賞の候補作が発表された。リストの中に青崎有吾『地雷グリコ』(KADOKAWA刊)があるのを目にしたとき、思わず立ちあがらずにはいられなかった。
青崎有吾『地雷グリコ』は、勝負事にやたらと強い女子高生がさまざまなものを賭けた頭脳ゲームに挑む物語である。連作短編集の形式をとっており、キャッチーな書名は作中のゲームのタイトルとなっている。
これが本当におもしろい。学園ものと頭脳ゲーム(ギャンブル)という組み合わせにはいくつか先例があるものの、本作はその中でも平穏な雰囲気を保っている方だろう。だからこそ思考の読み合いに焦点が当たっていて、とてもスリリングなのだ。話が進むごとにゲームがより複雑に、勝ち方がより魅力的になるところもすばらしい。
作中に登場するゲームは、すべて既存の遊びやゲームをベースにして作られている。これは青崎有吾さんが愛する漫画である『嘘喰い』へのリスペクトなのだと思うけれど、小説という媒体を最大限に活かしたギミックもあり、独自の魅力を強く放っている。
「自由律ジャンケン」と「だるまさんがかぞえた」が特に好きなのだけれど、小説ならではの美しすぎるトリックに痺れてしまった。「だるまさんがかぞえた」の結末を目にしたとき、あまりの衝撃に本を持ったまま立ちあがり、ぐるぐると部屋を歩き回った。このような奇行に及んでしまうほどに強烈なおもしろさがあった……。
私は『地雷グリコ』のことがあまりにも好きで、発売直後は友人に会うたびに「地雷グリコを読んでください」とお願いしていた(友人はみな優しいので読んでくれた。ありがとう)。読み終えてからずっと、大きくふくらんだ「好き」の感情を抱えつづけている。よければあなたも読んで、私と同じ感情を両手に抱いてください。
受賞したからその作品がすぐれているということにはならないけれど、愛する本が受賞することほどうれしいことはない。どきどきしながら7月を待っている。
『地雷グリコ』以外の候補作もひととおり読んでおこうと思い、まとめて買い揃えた。気づけば積読の山が塔のようにうずたかくそびえ立ち、部屋のなかで異様な存在感を放ちはじめた。
そこで小さな机を置き、ブックスタンドを用いて陳列してみることにした。未読の本だけで構成された列は小さな書店のようであり、なんだかうれしい。本を読んでいる凪砂くんのアクリルスタンド(同人グッズ)を添えてみれば収まりもよく、かわいい。
こうなると、つい並べる本を増やしたくなってしまう。これでは本末転倒(本だけに)なのだけれど、まあそれもいいか、となんとなく自分を許しながら暮らしている。
■『学園アイドルマスター』のこと
※『学園アイドルマスター』藤田ことねの親愛度10コミュの内容にふれています。
今月も『学園アイドルマスター』を楽しく遊んでいる。先月に引き続き、藤田ことねさんというひとりの女の子に夢中になっていた。
このゲームには親愛度というシステムがある。ひとつ親愛度があがるごとに固有のストーリーを読むことができて、その最終話が親愛度10のコミュにあたる。ここまでたどり着くためには、簡単にいえば高いステータスになるまで育てること、そして最終試験で好成績をおさめることが必要だ。これがかなり難しくて、私は試行錯誤を繰り返した。
そうしてようやく読めたコミュの中で、藤田ことねさんはこのように語っていた。
「初めてお会いした頃のあたしって、お先真っ暗だったんですよねぇ」
ここで、『まほろ駅前多田便利軒』という映画の話をしたい。
三浦しをんの同名小説を原作としている作品で、便利屋を営む多田という男が、かつての同級生の行天(ぎょうてん)と再会することで物語がゆるやかに始まる。私の大好きな映画のひとつだ。
この作品の中で、多田と行天が再会したのは単なる偶然の産物にすぎなかった。多田が仕事で預かっていた犬が失踪し、探していたところに彼と出くわした。
最終バスがとっくに過ぎ去ったバス停のそばで、行天は犬を抱いて座っていた。いくつかの対話のあと、多田は行くあてのない行天を泊めることになり、ふたりは歩き出す。そのとき行天は懐に隠していた包丁をベンチに置き去りにする。もちろん、その様子を多田は見ていない。
のちの場面で、あの包丁は自らを虐待していた親を刺すためのものであったことがわかる。つまり、多田と再会したときの行天はぎりぎりの状態だったのだ。
おそらく行天は多田に救われたとは思っていないだろうし、多田も行天を救ったとは思っていない。ただ、結果として「行天が道を踏み外すことを、多田との再会によって回避した」という救いだけがそこにある。
私はなぜか、藤田ことねさんとプロデューサーの物語を見守りながら、このシーンのことを思い出していた。
藤田ことねさんの語る「お先真っ暗」がどの程度の切実さをもったものだったのかは、彼女以外にはわからない。お金のかかる初星学園を辞めていたかもしれないし、借金を返すために働くだけの人生を選んでいたかもしれないし、あるいはすべてを投げ出していたかもしれない。
もちろん、彼女と出会ったころのプロデューサーにはそのような事情を知る由はないし、出会ったあとでさえうっすら察する程度だった(この「プレイヤーにもうっすら察させる」シナリオの作り方は本当に巧い)。
それでも藤田ことねさんはプロデューサーに出会い、「お先真っ暗だった人生が、なんとかなるかもしれない」と思い、やがて「生きててよかったって思った」と歌っている。
人は人を救うことはできないけれど、勝手に救われることはあるというのが私の持論だけれど、それを体現するようなシナリオでうれしかった。もちろん、出会ったあとのふたりは互いに努力を重ねている。「トップアイドルの藤田ことね」という共通の目標に向けて工夫を凝らし、愚直にレッスンを重ねつづけている。
それでも最初の出会いだけは偶然で、なんならプレイヤーとしての私と彼女の出会いさえただの偶然にすぎない。それが救いをもたらしていたことを、プレイヤーとしての途方もない苦労の果てにしか辿り着けない親愛度10のコミュでさらっと明かすところに魅了されてしまった。
改めて『学園アイドルマスター』は唯一無二の体験をもたらしてくれる、すごいゲームだと実感した。ここまでキャラクターを立体的に感じたのは、『あんさんぶるスターズ!』の奇跡⭐︎決勝戦のウインターライブ「友情/第八話」の以来のことだよ。
■読んだ本のこと
三木那由他『言葉の展望台』を読んだ。言葉とコミュニケーションを研究する著者が、エッセイのような軽やかな表現で専門的な内容を紹介してくれる本だ。
哲学書に分類されるのだろうけれど、やわらかな語りがとても読みやすい。著者の体験(日常の微笑ましいエピソードから『スカイリム』や『僕のヒーローアカデミア』の話題まである)を興味深く読んでいたら、いつのまにか哲学の入り口に立たせてもらっていたような鮮やかな手さばきを感じた。
取り扱っているテーマもコミュニケーションの暴力性、マンスプレイニング、一人称とアイデンティティの問題など、私にとってはすぐに隣にあるのにもやもやとした霧に包まれていた事柄ばかりで、読みながら視界がぱっと開けたような心地よさがあった。
特にインターネットの世界においては、こうして語る言葉が存在のすべてを示している。私は肉体を持つ社会的存在であるけれど、あなたとインターネットで相対するときには数バイトのテキストにすぎない。それはとても怖いことだな、と改めて思う。
私は私の無知によって、知らず知らずのうちに言葉で誰かを傷つけているかもしれない。いま、この瞬間も消えない悲しみを与えているかもしれない。
けれど、そこで取るべき態度は「何も書かない、あるいは無難な言葉だけを選ぶ」というものではなく、たくさん学んで考えて、誠意を持って言葉を選んで選び尽くしたうえで世に送り出すことだと信じている。
言葉について語られた専門書であるから、ここで私がその内容について改めて語り直すことはしない。一部分を切り出すことで本旨が容易に変質してしまうような繊細な議論ばかりだったから、あくまでも素晴らしい本だったという紹介にとどめておくね。
それでもひとつだけ、特に好きな記述を引用させてほしい。
この文章は本書のまえがきに置かれている。たしかに、哲学というほど大仰なものではなくても、いくつもの考え方や視点について知ることによって世界の見え方は確実に変わる。
『言葉の展望台』を読んだことで、私の手のひらのなかにいくつかのレンズが増えた。けれどまだ足りない。あなたや私自身を傷つけないために、やさしく在るために、これからも試行錯誤をしながら学びつづけていこうと思う。
それでは、またね。おやすみなさい。