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月報:2023年8月

 世界が暑すぎる。暑い。真昼の街のなかにいると、からだの縁がうだるような夏に溶けていくような気さえする。
 陽射しの熱が抜けなくて、何度も何度も熱を出した8月だった。それでも、暑くないと書けない文章があるような気がするから夏は嫌いになれない。うそ、たぶん冬の方が好き。

◾️原稿のこと

 7月に受けた資格試験の結果が出た。知的財産管理技能検定という試験の2級で、無事に合格していたので安堵する。これでようやく腰を据えて原稿に取り組むことができそうだ。すぐにあたらしい試験勉強がやってくるのだけれど、束の間の休息を味わうことにする。
 今の私は大小あわせて5つの原稿を抱えている。幸いにも締切はばらばらなので、順序立てて丁寧に進めていけばなんとかなるだろうと踏んでいる。この月報を書いている時点では、ひとつめの原稿を2,000字ほど書いた。
 Ra*bitsのアルバムのリード曲『ヒカリスペクトル』がとても良くて、机に向かうときはずっと聴いている。みずみずしさと眩しさがきゅっと詰まった、夏のようなメロディが降り注ぐ感覚が心地良い。

 小説というのは実に不思議なもので、しばらく書かないでいるとそのやりかたをすっぱり忘れてしまう。過去に出した本をぼんやりと眺めるたびに、撮った記憶のない写真をフォルダから見つけたような心地になる。それでもふたたび書きはじめると、文章を書くことの楽しさが私の指先を操りはじめる。
 とても感覚的な話になるけれど、小説の執筆は建物を設計すること、やわらかい糸でなにかを編むこと、そこにあるものを撮影することの中間地点にあるような気がする。それぞれの楽しいところのいいとこ取りで最高だね。建物の設計はしたことがないけれど。

 ともあれ、きちんとやっていますという報告です。いちばん早いものは9月に見せられるはずなので、遅れないようにがんばろう。

◾️ミルクブリューと本のこと

 本を読むとき、あるいは原稿をするとき、私はなるべく飲みものを用意するようにしている。ほとんどの場合は紅茶なのだけれど、この夏はミルクブリューをしばしば作っている。

 ミルクブリューとは、つめたい牛乳にコーヒー粉を浸して抽出するミルク出しコーヒーを指す。
 不織布のパックにコーヒー粉を詰めて、ガラスのポットにそっと入れる。そこに牛乳をたっぷりと注ぎ、コーヒー粉のパックをマドラーで丁寧に沈める。金色の蜂蜜を好きなだけ落として、ポットに蓋をする。冷蔵庫で一晩寝かせて、そのあいだに私も眠る。たったこれだけで完成するのだ。
 翌朝に冷蔵庫を覗いてみれば、ポットの中の牛乳はやわらかなベージュに色づいている。簡単に使えてしまう魔法みたいで、私はいつもわくわくしている。グラスに注げばコーヒーの香りがふわりと漂う。普通に淹れるのと遜色がないほどに芳醇で、けれどもやさしい。
 胃腸が弱い私にとって、ミルクブリューは救世主だった。ブラックコーヒーでは必ず、カフェオレなら半々くらいの確率で胃痛に苦しむのだが、ミルクブリューではそうはならない。牛乳の割合が多いおかげかな。

 朝の光とミルクブリューを頼りに進める読書は、自分自身を日常の重力圏から解放する力を持っているような気がする。このようなお守りめいたものを生活のあちこちに配置しておくことで、身体がほんの少しだけ軽くなる。

 市川沙央『ハンチバック』を読んだ。第128回文學界新人賞および第169回芥川賞受賞作である本作の著者は、先天性ミオパチーという指定難病による重度障害当事者である。

 物語のあらすじはこうだ。主人公である井沢釈華は、両親が遺したグループホームに入所する重度障害者である。彼女の背骨はひどく湾曲しているため、肺を押し潰すかたちになっている。仰臥時には人工呼吸器を必要とする彼女は、通信制の大学に通い、webライターとしてコタツ記事を書き、性描写にまみれた小説を書き、SNSではぎょっとするような物言いをする。ある日、彼女が入所するグループホームの職員・田中は、釈華のSNSアカウントを見ていることを仄めかす。

 物語にメッセージ性が必要だとは思わないし、強い訴求力を有している作品が優れているとも思わない。しかし一方で、物語を通してなにかを訴えかけることを選んだひとは報われてほしいし、物語に内在するメッセージはどこまでも駆けていってほしいと思う。
 『ハンチバック』は私の想像だにしない世界を突きつけた。主人公の釈華は、難病により生活に多数の困難を抱えている。紙の本をめくることもそのひとつであり、彼女は”紙の本を愛する読書家の特権性”を説き、紙の本を憎んでいるとさえ述べる。
 まさしく紙の本を愛する私は、ページをめくる指先がすっと冷えていくのを感じた。作中で述べられているように、釈華のような存在は私にとってこれまで透明であった。マジョリティ寄りのマイノリティ(と表現するほかない)が透明であることを嘆きながらも、彼女のような人々が生きる場所を映しだす想像力をもたなかった。もちろん、まだまだ見えていない領域ばかりだろう。本作に込められた強烈なメッセージは私の胸をまっすぐに貫き、その衝撃がいつまでも鳴り響いている。

 結局のところ、私は紙の本を難なく読むことができる人間だ(誰もが不慮の事故や病気で障害当事者となる可能性があることは、ここでは一旦置いておく)。私は『ハンチバック』を物語として消費し、理解したような気になって本を閉じる。だがそこでとどまらず、その先へ進むにはどうしたらいいのだろう。
 やさしくありたいね。憐憫や権力構造を含まないやさしさは、知識と想像力から生まれるように思う。そのためには懐疑の目で世界を見て、常に変化し続けるしかない。『ハンチバック』が私にもたらしたアップデートを無駄にはしたくないな、なんてとりとめもなく思った。

 作品そのものについて言えば、純文学のなかではかなり読みやすいように感じた。読みやすいというよりは疲れにくい。釈華は自己や世界を俯瞰して捉えていて、それが心理描写にも如実にあらわれている。感情は描かれているのに鬱屈としておらず、憎悪はあれど攻撃はない。事実を積み重ねて、その積層の模様で感情を描こうとしているような印象だった。田中とのやり取りも湿度が低かったし、迎えた結末の受け止め方もどこか他人事のようで、それがとても心地よかった。

◾️「テート美術館展 光 ー ターナー、印象派から現代へ」のこと

 某日、国立新美術館にて「テート美術館展 光 ー ターナー、印象派から現代へ」を観た。

ポスターの青と空の青

 テート美術館は英国の国立美術館だ。本展ではその所蔵品から「光」をテーマにした約120点が展示されている。
 テート美術館といえば、相対性理論の『帝都モダン』を連想する。その程度の認識であったため、どのような作品が展示されるのかを知らないままに訪れた。

 晴れた日の国立新美術館には、ありったけの光が降り注いでいた。その光の眩しさに目を眇めながら展示室に入ると、様々な方法で切り取られた光たちと相対することになった。

オラファー・エリアソン《星くずの素粒子》2014年

 光はいつもそこにあって、私たちはいろいろな手段で知覚することができる。自然の光、人工の光、明るさを感じさせるような事物、希望を抱かせるようなもの、美しさ。いくつもの意味を内包するせいかどこか曖昧で、概念的でもあって、とても魅力的だ。芸術家たちが光を各々のやりかたで永遠にしようとした痕跡のようなものを感じることができて良かった。

 いちばん目を惹かれたのは、ジョン・ブレット《ドーセットシャーの崖から見るイギリス海峡》(1871年)だった。本展のキービジュアルとして用いられている海の絵で、この月報の見出し画像としても使用している。
 深く透きとおった空から、天使の梯子と呼ばれる薄明光線が淡く降り注いでいる。広い海の水面が明るく照らされて、きらきらと輝く。思っていたよりも大きな絵で、額縁がなんだか窓のように思えてしまった。
 観ていたときは純粋な美しさにばかり心を奪われていたけれど、今はその背景が気にかかっている。ジョン・ブレットは美術史においてどのような立ち位置にいる画家なのか、ドーセットシャーとはどのような場所なのか、なぜブレットはこのモチーフを選んだのか。まだまだ知る楽しみが残されていることをうれしく思う。

 それでは、またね。おやすみなさい。

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