月報:2024年11月
お知らせですが、2025年1月からしばらく月報の投稿が不定期になります。いろいろと落ち着いたら定期投稿に戻る予定です。
■最近のこと
やるべきことに圧迫され、一日一日が奇妙に伸び縮みをしているように思える。焦ったり、開き直ったりを繰り返しながら奇妙なステップで歩みつづけている。
ブランクーシのいぬのぬいぐるみをお迎えした。いぬが好きな友人に贈るためにふたつ取り寄せて、しばらく並べて座らせていた。アート好きな愛犬らしい。なんと賢く、かわいいのだろう。
ブランクーシといえば≪空間の鳥≫もかわいい。活きのいい秋刀魚みたいだ。
久しぶりにノー・レーズン・サンドイッチを買った。レーズンが嫌いなひとでもサンド菓子を食べられますように、というすばらしい祈りが込められたお菓子だ。しかしながら、大体は箱の半分がイエス・レーズン・サンドイッチ(と呼んでいいのか)であり、私はすべてがノー・レーズン・サンドイッチで構成されているONLYだけを購入している。
ZAKUZAKU APPLE PIEというご機嫌な名前のサンドイッチは、アップルパイのおいしいところだけをぎゅっと閉じ込めたような味をしていた。シナモンだけじゃない、なんらかのスパイスたちが甘く香る。おいしい。ひとつひとつのサンドがずっしりと重いのもうれしい。
秋だねえ、なんて呟きながら私は冬に備えて衣替えを済ませた。雪と静寂に閉ざされた世界を迎え撃つ準備はできている。
■潜水すること、そして永井玲衣『水中の哲学者』のこと
最近、友だちと話をしている中で「インプットとアウトプットの心象風景」の話題になった(なった、というのは不正確で、私が彼女に問いかけたのだ)。友だちは「アウトプットが潜水のイメージなので、インプットはその前段階としての呼吸」と答えてくれた。なるほど、彼女の作風からして頷ける。そして心のなかに海を湛えているのがとてもいい。私の心のなかにも水場があるから、勝手に親近感が湧いてしまう。
私はインプットについて考えるとき、心の中にプールを視る。白く広大なプールサイドに、長方形の穴がぽっかりと空いている。張られた水は陽光を跳ね返してきらきらと輝くときもあれば、水銀のように重たい光を返すこともある。私は新しいものにふれるたびに、そのプールに知識や感情をどんどん放りこんでいく。見たもの、聞いたもの、感じたこと、考えたことが同じ水に溶けあい、揺らめいている。
プールサイドに屈みこんだ私はじっと水面を見つめる。やがて不意になにかが浮かんでくるので、おずおずと手を浸してみる。掬い上げたそれがアウトプットだ。
ふと、どうして私はこのプールに潜らないのだろう、と思った。プールサイドで手のひらだけを浸しているんじゃなくて、ほんとうは友だちのように潜ったほうが楽しいんじゃないか。
永井玲衣『水中の哲学者たち』のなかに、こんな一節がある。
プールに潜ることのない私は、実は思考しているようでなにも考えていないのではないか、という恐ろしい仮説にたどり着く。目の前にあるものを咀嚼せずに呑み込み、消費し、集中することなく消化しているのではないか。私がアウトプットだと思っているものはすべて脊髄反射で、ただの反応で、反照でしかないのではないか……。
私はかすかに震えながら、本を読み進める。『水中の哲学者たち』は、哲学研究者である筆者が書いたエッセイである。身近な体験や記憶を取りあげて、哲学という切り口から見せてくれる。考えたことをぽつぽつと話してくれるような散文的な語りが心地よく、するすると泳ぐように読むことができる。
ひとつひとつのトピックを目で追いながら、私の脳裏には次々と言葉の泡が浮いてくる。変わることって、怖いかな。私は変わることこそが幸福だと思うよ。美容院はたしかに怖いよね。「どうしたいですか」なんて問いかけ、美容院以外で突きつけられたら泣いてしまうかもしれない。
あれ、これは思考ではないか……?
そう気づいた瞬間に、プールサイドだと思っていた場所が実は水底なのだと思い知る。私がうんうん唸りながら文章を書くことは、そもそも水底で感じる息苦しさなのかもしれない。つまり、知らず知らずのうちに潜っていたのだ。レアンドロ・エルリッヒの《スイミング・プール》という作品に少し似ている。
私たちは考えていないようでいて、実際には常に思考している。自らの内側にある、ふわふわとした曖昧模糊ななにかを懸命にとらえて、言語化の枠に押しこんで、言葉を紡いでいる。見聞きしたこと、経験したことのすべてから微量のなにかを感じ取り、心の内側に蓄えている。それを書いたり、話したり、伝えたりしている。
そのことに気づいたとき、水中でぱちぱちと弾ける泡に祝福された。
とはいえ、私のプールのなかに別のプールがあり、それが目の前に鎮座していることはひとつの事実である。目の前に溜まっているなにかは、私が能動的に潜ることを待っている。意識的に集中して、正面から向きあうことを望んでいる。
まずは練習から。私はそっと、目の前の水面に足を浸してみることにする。
■『負けヒロインが多すぎる!』のこと
先日、アニメ『負けヒロインが多すぎる!』を観た。すばらしく良いものを観たという感慨があり、しばらく充足感に浸り続けている。
『負けヒロインが多すぎる!』はガガガ文庫より刊行されている同名のライトノベルを原作としたアニメーション作品であり、2024年の夏に放送されていた。私はリアルタイムには追えなかったのだけれど、自分のペースで観てよかったなと思う。
「負けヒロイン」という俗称の意味するところを理解している層を受け手にしているからか、この物語はテンプレートをうまく利用した作劇をしている。冒頭に登場する「いかにも」な幼馴染、ライトノベルのお約束のような転校生、そして「大きくなったら結婚する」というありふれた約束と、よくある裏切り。そのすべてが手垢のついた要素であり、どこかで見たようなエピソードだ。
だからこそ、ヒロイン──八奈見杏奈とその幼馴染をめぐる物語を些細に描くことはしない。ざっくり切り落とした断片だけを私たちに提示して、あらすじを理解させる。こうして共感性の高い「ラノベあるある」ばかりで物語を進めるのかと思いきや、突然定型から外れた感情を前景に置いてくる。
この独特の切り口が、書き割りばかりの舞台が突然外の景色と接続されたような、生身の人間がイラストレーションの中から飛び出してきたような、奇妙な手触りを感じさせる。
結局のところ「負けヒロイン」というのは相対的な価値観でしかない。あるひとつの恋愛において選ばれなかったといって、他の恋愛においても同じような末路を辿るとは限らないし、それ以前にその人の人生は恋に敗れたところで終わるわけではない。
しかしながら、恋愛の物語においてはあるひとつの恋人関係が成就することがそのままエンドロールに結びついていることが多々ある。だからこそ選ばれなかった彼女たちは「負けヒロイン」と呼ばれるのだ。
けれど、それがなんだというのだ。──本作では、負けヒロインという価値観を絶対化することにより、かえってそのラベルの無意味さを語り直そうとしているように感じられる。
負けたからなんなのだ。負けたって人間関係は終わらないし、何も変わらないし、人生は続いていく。恋愛だけがすべてではなく、尊敬や親愛から生まれる唯一無二の絆もある。あるいは、そんな感情がひとつもなくたって、自然と友だちになることもある。そう、温水と八奈見のように。
『負けヒロインが多すぎる!』は人間讃歌だ。どんなひとにも自分だけの人生があるということ、その人生の主人公は自分自身なのだということ、そんな当たり前のことを丁寧に伝えてくれる。
優しくて、眩しくて、最高に清々しいアニメだった。原作もまとめて買ったので、少しずつ読み進めていきたい。
それでは、またね。おやすみなさい。