我々は妥協を重ねながら生きている。
友人のOさんが読んだというので僕もこれから読もうと思っている國分功一郎の『暇と退屈の倫理学 増補新版』の表紙をめくったすぐのところにある「増補新版のためのまえがき」の1行目の文章がこれだ。我々は妥協を重ねながら生きている。
この1行のあとにつづく文章は、まだ読んでいない(正直にいえば少し読んだけど、でも読んだといえるような読み方ではないので読んでいないとここで書いてもまちがいではない)。まだ先を読んでいないからどのように書かれているのかわからないけど。僕はこの1行に強く惹きつけられた。
結局、昨夜もまた懲りずにズームで30分。深夜に雑談のような時間を過ごした。ふりかえれば2夜連続というまったく自己満足な企画だった。よくできたもんだ。
昨夜は1人増えて僕を入れて4人。うち2人は2夜連続の参加。よく付き合ってくれたもんだ。うれしい。あと1人は昨夜あらたに参加してくれた。あらたに参加してくれたTさんとは久しぶりだった。だからついついお久しぶりですと言いあっているうちに予定していた30分がたっていた。2夜連続参加してくれた2人とはあまり話すこともできず少しだけ申し訳ないことをしたような気もするようなしないような。いや。する。
Facebookにはときどき過去の投稿があがってくる。今朝もそうだった。2年前の今日のもの。家をリフォームしたときのことが書いてあった。もうそんなになるのかと驚いた。投稿にはリフォーム前の間取り図と家具の移動や廃棄のメモ書きの写真もあった。あのときはいろんなものを捨てた。軽トラックの荷台に古い家具や什器などをいっぱい積み込んで車で30分ぐらいのところにある焼却施設まで何度も何度も運んだ。いろんなものを捨てるたびに身軽になっていくような気がして気持ちよかった。いまも憶えている。
我々は妥協を重ねながら生きている。ほんとにそうだなとおもう。しかし妥協ってなにかな。何に妥協しているのかな。妥協って悪いことなのか。妥協を妥協するってものあるのか。
ネットのコトバンクによれば妥協とは「対立した事柄について、双方が譲り合って一致点を見いだし、おだやかに解決すること」とある。妥協は対立する何かがあって生じるものなのだ。ということは対立がないところには妥協もないということになる。
誤解していた。間違っていた。対立せずに妥協する。対立を避けて妥協する。対立するのが嫌だからしぶしぶ妥協する。そんなことを妥協だと考えてきたし、そんなふうに妥協(という言葉を)を使ってきた。
我々は妥協を重ねながら生きている、というこの1行にある妥協は、いったいどっちだ。
もしかしたら僕はこれまでちがう妥協を生きてきたのかも知れない。まちがいを重ねながら生きてきたのかも知れないし、生きているのかも知れない。
そして人生はつづく 1172文字