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“身体性の消去”

今日2つあった予定を変更した。1つはこちらからキャンセルした。そもそもわざわざ行かなくてもいいことだった。だからやめた。あと1つは延期に。先方の都合が悪くなったと連絡があったからだ。このご時世だ。外出はなるべく避けたかったのでかえってありがたかった。それに急いでやらなければならないこともある。確定申告だ。先延ばしにしてきたがさすがに期日が迫ってきた。面倒だがやるしかない。やるしかないと焦りながらいまもこうしてnoteを書いている。しかもたっぷりと。

これも逃避か。逃げるだけ逃げて逃げられなくなるまで逃げるしかないのか。面倒なことからは逃げずにそれこそ向かって行こうなんてそんな気には、もうなれない。そんなことはもういい。手放したい。放棄したい。それよりも大事なことがあるんじゃないかと。そんな気もするがそれも気のせいか。何を言ってるんだか。わからない。

でも一度広い場所へ出たらもう引き返すことはできない。広い場所はいいな。読んでいるひとにはよくわからなくて申し訳ない気持ちもあるけど。許してほしい。すみません。勝手気ままに書いてるだけです。

たまたま入った近所の喫茶店で見かけた貼り紙に書いてあった「迷惑」の2文字に違和感を感じた翌日に前から気になっていた尹雄大の新刊『モヤモヤの正体』が出たことを知った。副題は「迷惑とワガママの呪いを解く」。これはいいタイミングだとばかりに、すぐに買ってきて一気に読んでからもう何日もたつ。なんだかモヤモヤするので昨夜もう一度さらりと読み返した。

読んだからといってモヤモヤなど解決しないのはわかっているけど読まずにはいられないから読んだ。案の定、モヤモヤはモヤモヤしたままそのままだ。

昨夜、僕にとって印象に残った言葉は “身体性の消去” だった。


職人は身体に自信が備わっている 「モヤモヤの正体」87-88p

「根拠のない自信」と聞くと、私は職人を思い浮かべます。以前、工藝や大工といった分野の職人を取材し、話を聞いたことがあります。共通していたのは、生きていくことに対して根拠のない自信であり、知っていることとできることが一致していたところです。その一致を技というのであれば、技の水準の高さが仕事の上での自信になるのはわかります。

ただし、あくまで大工であればその分野に限っての自信のはずです。できることが限られていると、それ以外のことが気になってつい不安になるのではないかと私は思うのですが、彼らは「できることがある。それ以外の何が必要なのか」と実に堂々たる態度なのです。技のある生き方をしていると抽象的な悩みというのは持ちようがないのかもしれません。そこに一個の人間としての痛快さを覚えます。

私が出会った限りの職人は意識的な自信を持っていませんでした。身体に自信が備わっています。というより身体が自信なのです。そのため他人がどうあれ自分の感覚こそが重要で、あまり人に共感を持ちたいと思っていない素振りが見られました。ひょっとしたら彼らのような根拠のなさに耐えられる身体こそが、根拠なくこの世界に投げ出されてしまったという「わけのわからなさ」に対応できる鍵なのかもしれません。

●身体から問い始める 「モヤモヤの正体」206ー207p

家庭や学校、職場における教育で、私たちは概念に対して受け身の身体性を当たり前にしています、「受け身の身体性」がピンとこないとしたら、これはどうでしょう。「正しい知識がないと行動できないし、してはいけない。そういう行儀の良さをもう学校にいるわけでもないのに普段の暮らしの中で知らず実践しているし、それを基準に自分や他人を評価している」。心当たりはないでしょうか。

私たちは「こうしたほうが良い」「これが正しい」とさんざん言われてきましたし、自分にも言い聞かせてきました。十分なくらい「良い」「正しい」を知っています。それらを実行しても、しっくり来なかったり窮屈な感じがあるとしたら、きちんと実行できないことが原因ではなく、考えがそもそも身体に合っていないのかもしれません。そのことが不全感と拘束感と不自由さをもたらしているのではないでしょうか。

私たちはもう偉い人や立派な人の教えを一方的に与えられる役割から降りて、自立して学ぶ時期に差しかかっているのではないでしょうか。では、理想や正しさといった概念に照らして自分の行動を修正するのではないとしたら、何が手がかりになるでしょう。私はそれが身体だと思います。

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