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蠢いた夜のこと

昨夜のオンライン読書会は楽しかった。西田幾多郎の『善の研究』を4人で読んだ。それぞれの自宅に居ながら夜の8時から9時半までの1時間半をともに過ごした。

昨夜で5回目。参加メンバーも定着してきた。以前から互いによく知った仲だ。当初はまったく見知らぬ人も参加するかなと思ったり期待したりもしたが結局は落ち着くところに落ち着いた。特別なことなど何もない。そんなもんだ。

難解な本だから一度や二度読んだくらいではわからない。読む。唸る。読む。唸る。読む。そのくり返しだ。よく知った仲だから唸りたいとき素直に唸る。声に出してうんうん唸る。

唸り声はマイクに拾われインターネットの回線にのってそれぞれのところへ運ばれてくる。僕のところにも届く。両方の耳に挿し込んだイヤホンからメンバーの唸り声が聞こえる。耳元でそれらを聞きながら僕もまた僕の声で唸る。僕の唸り声もまたマイクに拾われて運ばれていく。

みんなで唸っているうちそのうちに誰かが唸り声とはちがう声を出しだす。それは、いましがた読んだ文章の繰り返しであったり、わからないというはっきりとした意思のある呟きであったり、また本のなかの言葉に対する疑問や問いかけであったり。それはそれはさまざまだ。

ひとりがそんな唸り声とはちがう声を出しだすと、またひとり、またひとりと、それはつづく。連鎖する。それは発表するとかそういう類いのものでは決してなく唸り声の次に洩れ出てくる声の類いのようなもので、とても自然な流れとして起こる。そこにある。

僕のパソコンには4人の顔が映っている。僕以外の3人はそれぞれ眉間に皺を寄せている(ようだ)。正面を見ているものは誰もいない。視線を下に落とし手にした本の文字を懸命に追っている。睨んでいる。こめかみに左右の手の指先をあてながら脳の働きを促すような体勢で読んでいるものもいる。

いま来た道を引き返してもう一度歩く。さっき歩いた道なのに、いやさっき歩いた道だからこそ、なにかまたちがうもの、さっきとはちがうものを見たり聞いたり感じたりする。

一度歩いた道でも二度目のそれはちがう道だ。さらに歩けばまたちがう。同じ道でありながら歩くたびにちがう道。道は同じなのにちがう。このちがいは何だ。そのたびに更新されていく自分がいる。

昨夜はそれぞれがそれぞれのところで蠢いていた。唸り声をあげながら蠢きながら本を読んだ。おもしろかった。なにものにもかえがたい時間だった。

そして人生はつづく 1022文字


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