ショートショート(話40目)転職エージェント黒八木
喫茶店の窓からは桜の花が見えた。
季節は4月だった。
春は出会いと別れの季節というが、真中祐樹にとって今年の春は別れの季節となった。
「黒八木さんのお噂は田中輝明から聴きました。田中はかなり待遇のいいところに転職したということで、それでぜひ私も相談したいと思いまして」
田中輝明は、5年ほど前に僕が転職支援をした男だ。
真中は田中の元上司にあたる。
『田中さんは優秀でしたからね』
「ええ。確かに彼は優秀な営業マンでした。あ、そうそう、先に相談料を払っておきますね」
真中は財布から1万円を取り出した。
『確かに受け取りました』
「それにしても、転職エージェントなのに企業を紹介しないなんて、黒八木さんは珍しいことをしてますね」
『最近ではそれほど珍しくはありませんよ。それより、真中さんが今回転職を考えている理由を教えて頂いてよろしいですか?』
「ああ、そうでしたね。すいません。実は、先月会社から部署異動を命じられましてね。いままではエンジニアを統括する事業部長としてカトウ電機で働いていたのですが、部署異動に伴って一介の社員に格下げされることになったんです。それで、収入もだいぶ下がることになってしまいましてね。25年間も会社のために働いてきたのに、それが認められなかったことが悔しくて、啖呵を切って先月退職したんです。以前よりも待遇のいいところに転職できればと思って、それで黒八木さんに相談しようと思いまして」
『ちなみに部長をなさっていた時の年収はどれくらいでした?』
「700万円くらいですね」
『そうですか。真中さん、失礼ですがいま年齢はおいくつですか?』
「47歳です」
『それですと、正社員の転職自体がかなり難しいですね』
「え?そうなんですか?でも、25年間もカトウ電機で働いていたので、ビジネスのスキルはかなりあると自負しているんですがね」
『真中さんがお持ちのスキルはなんですか?』
「そうですね。マネジメントスキルとかですかね」
『それだけですか?』
「あとは、若い時に営業を少ししていました」
『それだけだと、かなり厳しいですね』
「でも、田中はうちから大手のIT企業へ転職したんですよね?」
『田中さんは28歳でしたし、独学でプログラミングも学んでいました。それにカトウ電機での営業成績もトップだったので、大手企業に転職して収入を上げることができたんです』
「それじゃあ、例えば私なんかが再就職するとなるとどんなところがありますか?」
『正社員となるとかなり厳しいですね。アルバイトでも最近は年齢制限があるところが多いので、真中さんの場合、かなり絞られてきます』
「そ、そんな。黒八木さんのツテで、どこかいい会社とかはないんですか?」
『事前にお伝えしていますが、私は企業の紹介を行わない転職エージェントです。だから、行えるのは相談だけです』
「あの、黒八木さん。私はこれからどうすればいいでしょうか?」
『それをお決めになるのは真中さん本人ですが、、、、、。そうですね。例えば引っ越し作業のスタッフとかはいかがでしょう?』
「引っ越し作業のスタッフですか?」
『ええ。ちょっと待ってください』
僕はパソコンで求人サイトを検索した。
『例えばですが、ここはいま求人を募集していますね。引っ越し業界で常に施行件数がトップのクマのマークの引っ越しセンターです』
「引っ越しですか...。雇用形態がアルバイトで、時給は1200円ですか…」
『嫌ですか?』
「もうちょっと、待遇のいいところはないですかね?」
『ここは仕事ができれば昇給も早いですよ。2年前に同じように相談してきた方は今もここで働いていますが、すでに時給1500円まで上がっています』
「黒八木さんは、なんでここがいいと思ったのですか?」
『真中さんは、自由の価値をまだ知らないのではないかと思いましてね。カトウ電機で勤めていた時、月間の残業時間はどれくらいでしたか?』
「そうですね。月に平均で60時間くらいですかね」
『失礼ですが、真中さんはご結婚はされていますか?』
「はい。妻と娘が2人います」
『月60時間の残業ですと、家族と過ごす時間も取れなかったでしょう?』
「そうですね。自宅に帰るのは毎日22時を過ぎていましたし、休日出勤も当たりまえでしたから」
『それならば、ご家族と過ごすいいチャンスですよ』
「そうですか……」
真中は浮かない顔をしていた。
カトウ電機は東証二部上場の企業で、そこで25年間勤めていた真中にはそれなりのプライドがあっただろう。しかし、47歳からの再就職において、もっとも邪魔になるのはそのプライドだ。早めにプライドを捨てなければ、永久に再就職はできない。
『ご検討をお祈りしています』
僕は席を立った。
~1年半後~
真中から「お礼が言いたいのでお会いできませんか?」と言われて、僕は以前に真中と会った喫茶店へと向かっていた。
喫茶店につくと既に真中は席に座っていて、右手をあげて「こっちです」と言った。
『1年半ぶりですね。お元気ですか?』
「ええ。おかげ様で。あ、カプチーノでよかったですか?」
『あ、はい』
「いやあ、あれから何十社と選考を受けたんですが、結局全てダメでしてね。黒八木さんの言う通りでした」
『そうでしたか』
「それで、黒八木さんの言う通り、引っ越しスタッフのアルバイトの面接を受けてみたんです。そしたら内定を頂くことができましてね。まあ、嫌になったらすぐ辞めようという気持ちで入社したんですが、なんというか、引っ越しスタッフっていいものですね」
『どこがよかったですか?』
「そうですね。引っ越しスタッフって大変なイメージがあったんですが、案外休憩が多い仕事なんですね。この前なんて、10時間勤務でしたが実労働時間は2時間ほどでした。トラックの助手席に乗っているだけでお金がもらえる仕事があるなんて思わなかったですよ」
『そうでしたか』
「それと、勤めて1年が経つんですが、会社から正社員にならないかって言われてましてね。受けることにしました」
『そうでしたか。それは良かったですね』
「あ、あと、自由な時間が増えたんで、最近は車内で読書をしているんです。学生の時に読んでいた本が実家にたくさんありましてね。改めて見返してみると、当時とは違った感動があるものですね」
それから真中は、家族との時間が増えたことや、トラックでのドライブが楽しいことなんかを話した。
『47歳でプライドを捨てるのは、勇気が必要です。それができた真中さんを尊敬しますよ』
「ありがとうございます。思い返してみると、カトウ電機に勤めていた時の私はとても嫌な上司でした。そのことに気付けてよかったです」
真中はそういいながら、満足そうにアイスコーヒーを飲んだ。
『ところで、僕がカプチーノを好きなこと、よく覚えていましたね』
「え?ああ。前回、ここのメニューを見てすぐにカプチーノを注文されていたので、お好きなのかなと」
『すごい記憶力ですね。僕は真中さんの下の名前すら忘れているというのに』
「ははは。ひどいなあ、もう」
僕はカプチーノを飲みながら、喫茶店の外を見た。
秋晴れのいい天気だった。
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