神殺しの似顔絵師(序章)の解説

2022年4月15日。
不登校の高校生、山田祐実のドキュメント記事を書いた。

無名の高校生のドキュメントなど誰も興味がないだろうが、私はいまこの記事の解説を書こうとしている。

かつて『ツァラトゥストラ』を書いたフリードリヒ・ニーチェは、当時その本が全く売れなかったにも関わらずツァラトゥストラの解説本まで出していた。

いま、私は若かりし日のニーチェの気分である。ニーチェの本が売れたのは、彼が晩年になって精神を病んでしまってからだが、私のこの記事が評価されるのは早くて50年後、遅くて数百年先ではないかと思っている。

この解説記事では私が神殺しの似顔絵士をプロデュースするにあたり、どういったことを心掛けているかや、活動の目的などを記載する。

山田祐実にではなく、私に興味を持ってしまった変わり者の方はぜひとも最後まで読んでほしい。

最初に、私は教育者であり、プロデューサーである。

だが、これまでにそれらの業務において一切の金銭は受け取っていない。
とはいえ一生慈善活動を続ける気はなく、あくまでキャッシュポイントを先延ばしにしているだけで、いずれはマネタイズをする予定だ。

自分でいうのもおかしな話だが、私がやっているこの活動には価値がある。
だから、私が死んだあともこの活動は誰かに継続してもらいたいし、継続するためには収益化の必要がある。

日本人はお金を儲けることをよくないことと捉える傾向があるが、むしろお金儲けは悪いことだという人ほどお金にとらわれていることに気づいた方がいい。

ビジネスにおいて、お金儲けは目的地達成のための手段だ。
わかりやすくいうならばお金は車のガソリンのようなもので、目的地に到達するために必要な燃料なのだ。

では私の目的は何かというと、世界を救うことだ。

こんな風に抽象的な書き方をするとただの感情論者に思われるかもしれない。もしくは、救われない理想主義者だと思う人もいるかもしれない。

私は救われない理想主義者ではあるが、感情論者ではない。
むしろ、この世界で信じているものは理論しかないと考えているほどの合理主義者だ。

世界を救うためにするべきことを一から書くと、残念ながらこのページから離脱する人が増えるだろうから、ここではすべてを記載するのは避けることとする。

最初に教育について話をする。

教育とは英語でeducationと書く。
e(外)にducation(導く)で教育という意味だが、残念ながら日本では内に詰め込んでいる。

世界一の学力を誇るフィンランドでは子供たちに対して外に導く方式で教育を行っている。かつてフィンランドでも内に詰め込んでいた教育を行っていたそうだが、100年以上前にそのやりかたは脱却した。

内に詰め込むという教育方法は脳科学の観点からみて明らかに非合理だ。
脳はひたすらアウトプット(出力)を繰り返すことで記憶に定着する。すなわち、一生使える知恵を手にいれようとするならば、インプット(入力)よりもアウトプット(出力)を優先すべきなのだ。

なぜ日本がこんなに内に詰め込む教育を行っているかというと、私が予測するに既得権益者の保身ではないかと思っている。

いまの教育スタイルならば、既存の教科書を作っている出版社、予備校や私立の学校、塾、フリースクールなどは安定して利益を生み出すことができる。だが、それらの場所で働く人たちの雇用を守るために子供がいるわけではないと私は強く訴えたい。

教育者のために子供がいるんじゃない。
子供のために教育者があるのだ。
このことをはき違えてはいけない。

次にプロデュースという行為について説明する。
プロデュースとはpro(前に)duce(引き出す)という意味がある。

すなわち、教育よりプロデュースが先にくることはない。
順番としては、教育により自分の考えなどを外に引き出したあとに、プロデュースによって前に進ませるということだ。

神殺しの似顔絵士、山田祐実に関わり始めたときも、最初にはじめたのは教育からだった。まずは山田祐実の持つ考え、能力に気づかせること。すべての始まりはそこからだ。

プロデューサーの中には自分の思い通りにならないと苛立つものも多い。しかし、それは本質から明らかに外れていて、重要なことはプロデュースされる側の自由意志なのだ。

私が山田祐実に関わるうえでの最優先事項は彼女の自由意志である。
自由意志の尊重なくして、世界を救うことなどできないからだ。

なぜ自由意志の尊重なくして世界を救うことができないかというと、戦争をイメージしてくれればわかると思う。

世界人口の99.9%以上は戦争に反対しているだろうが、なぜ戦争がいけないことかというと、他人に対して不自由を強制しようとしている行為だからである。すなわち、不自由の強制は明らかに社会がよくなることを阻害している。自分の思った通りに人を動かそうなんて考えること自体がよくないことなのだ。

だから、私のプロデュースは自由意志の尊重から始まる。
彼女がどんな意志決定をしたとしても私は彼女の自由意志を尊重するし、彼女が向かう目的地に私もいきたいと思ったらお手伝いもする。私のプロデュース理論はそんなところだ。

ここからは私のエゴ丸出しの目的を書く。
山田祐実のプロデュースを介して私がしたいことだ。

目的の一つ目は日本のアート市場規模の拡大だ。

世界には7兆円以上という規模のアートのマーケットがあるが、残念ながら日本のアートの市場規模はわずか300億円ほどだ。

私には夢がある。
それは障がいのある人も、働くことが苦手な人も、子供もお年寄りも、絵を描いて生活ができる人が増えればいいと思っている。

アートを学べば、感性は磨かれるし、多様性を認めることだってできるが、残念なことに日本人の多くはアートの良さを知らない。

知らないのは教育環境に課題があるからだ。
そもそも、義務教育で美術を数値で評価すること自体が間違っている。アートはもっと自由なもので、この世界をどう捉えているかを表現するためのツールであり、うまい下手で評価するべきものではないのだ。



目的の二つめは不登校児の地位向上のためだ。

世の中では不登校はいけないと教えられる。
だが、既存の日本の学校教育に対して何の疑いも持たないほうが私はどうかしているのではないかと思う。

教育者も子供も保護者も、もっと既存の学校教育に疑問を持たなければいけない。先述したとおり、日本は世界トップの100年遅れの古臭いスタイルで教育を行っている。例えるならば、世界中の人がスマホを使っているのに、日本だけいまだに公衆電話を使っているようなものだ。

同調圧力というのは怖い。
まわり中が「公衆電話をつかえよ」と言っていると、それが正解に感じてしまうものだ。公衆電話の先に未来はないと思えば学校には行かない。すなわち、不登校はある意味で合理的な選択ともいえる。もちろん、不登校のすべてを肯定する気はない。不登校で自宅にいながら、何もしていないというのはよくない。人間は社会的な生き物だから、社会との交わりを絶てば精神が病んでいくからである。


目的の三つめは、人生を楽しむためだ。

私は山田祐実をプロデュースするうえでたくさんの人に協力を依頼した。
ほとんど全ての人が私のお願いを承諾してくれて、この旅は進んでいる。

私は能動的ニヒリストだ。だから人間が生きる意味なんてないと思っているが、人生に意味がなくても、できるだけ長い時間を愉しみたいと思っている。そしていま、山田との旅は最高に愉しい。

「ただ女子高生とやりとりがしたいだけなのではないか?」と邪推に考えているものに一つだけ言っておこう。私は信じられないくらい異性からモテる。だから、山田が女子高生だからという理由でプロデュースに関わっているということは断じてない。この点については多くを語ると同姓の妬みや嫉みを買ってしまうのでこのへんでやめることにしよう。

さて、神殺しの似顔絵師(序章)の解説はここまでとする。

次回は神殺しの似顔絵師(第二章)でお会いしよう。





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