ショートショート(17話目)吉村雄一の憂鬱
8月も半ばに差し掛かっていた。
窓から見える街並みはどこか寂しそうだった。
机に向かって問題集を解いていた大橋貴也は水滴だらけになったコップを持ち上げながら「月ってなんで夜にしか現れないんですかね」と言った。
「昼間もでてますよ。ほら、あそこに」
「あ、ほんとだ。全然気づかなかった」
貴也はそう言ってアイスコーヒーを飲んだ。
「18年間、ずっと昼間に月がでているのに気づかなかったんですか?」
「はい。気づかなかったですね」
「それなら、勉強になりましたね」
「はい。暗闇も時には大事ですね」
貴也は窓の外を見ながらそういった。
貴也の家庭教師になってから2か月が経っていた。
窓の外の景色を眺めているだけで1時間2000円もらえるこのアルバイトは、大学生の僕にとってはオアシスだった。
貴也は両手をあげて伸びをして「疲れましたね」と言った。
「少し休みますか」と僕が言うと
「はい。休みましょう」と貴也は言った。
「次の模試はいつでしたっけ?」
「来週の金曜ですね」
「いい結果がでるといいですね」
「はい。でも、いい大学入って意味あるんですかね?」
「どうでしょう。私にもわかりません」
「吉村さん、早稲田大学ですよね。なんで早稲田大学いこうと思ったんですか?」
「僕の第一志望は東京大学でした。でも、東京大学に受からなかったので第二志望の早稲田大学に行きました。それだけです」
「そうなんですね。大学は楽しいですか?」
「つまらないですよ」
大学に入れば楽しいことが待ってると思っていた。
そのために受験勉強も頑張った。
だけど、実際に待っていたのは虚無な毎日だった。
やりたいこともなかったし、学校の勉強も特段楽しくなかった。
「つまらないのに、なんで僕の両親はいい大学に入れたがるんですかね?」
「将来が少しだけ有利になるからではないでしょうか」
「それだけですか?」
「たぶん、それだけですよ」
陽は傾きかけていた。
家庭教師の契約時間は残りわずかだった。
「吉村さんは将来やりたいこととかあるんですか?」
背中越しに貴也が聞いた。
「いえ。特にないですね」
「じゃあ、何のために生きているんですか?」
「生きている理由なんてないですよ。人間は熱量を消費するだけの有機体だと思ってますから」
「吉村さん、モテないでしょ?」
「なんでですか?」
「いまどき、ニヒリズムはウケませんよ」
「確かにモテませんね」
貴也は「終わったぁ」と言って欠伸をした。
「お疲れさまでした。来週の模試の結果、楽しみにしてます」
「ありがとうございます。僕は今までの家庭教師の中で吉村さんが一番好きです。」
「どんなところを気に入って頂けたんですか?」
「熱心に教えようとしないところですね」
「そうですか。家庭教師としては失格かもしれませんね」
「そんなことないですよ。吉村さんがそこにいるだけで僕は勉強しなきゃいけないって気持ちになりますから」
貴也は清々しい表情をしてそういった。
僕は貴也の母親から家庭教師の日当をもらい、そのあとこっそりと貴也に千円を渡した。
この千円によって貴也は母親に僕のことをほめてくれ、それによって貴也の母はまた僕に家庭教師を依頼する。
お金は効果的に使うことで自分の身を守ってくれることがある。
オアシスを守るためには保険料が必要なのだ。
貴也の家をでてしばらく歩いていると街頭に灯りがついた。
蝉の声がどこかから聞こえた。
1週間しか生きない蝉はなんのために生きているのかと、ふと思った。
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