ショートショート(30話目)白と黒の間

白黒つけるのが、人間は好きだ。

だが、白と黒の間には果てしなく広がるグレーが存在している。
この世界のほとんどはグレーでできている。


例えば、物理学ではムペンバ効果というものがある。
これは『特定の状況下では高温の水の方が低温の水よりも短時間で凍ることがある』というものだが、なぜこのような現象が起きるのか、いまだに解明はされていない。

音楽や絵画などの芸術分野もそうだ。
好きなミュージシャンや画家は趣味趣向によって分かれる。
従って、すべてのものが評価価値としてはグレーだと言える。

スポーツとて例外ではない。
例えばフィギュアスケートなどは、演技表現や振り付け、音楽の解釈などが採点項目に含まれるが、これらは客観ではなく審査員の主観によるものなので、グレーなスポーツといえる。

そう考えると、この世界でハッキリと白黒がついているものはオセロとパンダとシマウマくらいだ。


暇つぶしのために付けていたTVドラマでは、主人公の男の子に対してヒロインの女の子が『好きか嫌いかはっきりしてよ!』と叫んでいた。

好きが白、嫌いが黒としたときに、人間関係も殆どはグレーでできている。

好きと嫌いの間には、ちょっと好き、普通、ちょっと嫌いがある。
だが、こういった恋愛ドラマでは大概「大好きだ!」というセリフが採用される。おそらく、グレーが多いこの世界に人間は飽き飽きしているのだろう。だから、せめてドラマの中くらいは白黒ついた世界がみたいのだと思う。

案の定、主人公の男の子は『大好きだ!』と言った。

純白か、漆黒か。
ドラマの脚本で求められるのはその選択だ。

TVを消して、食卓へと向かう。
テーブルの上には筑前煮が置かれている。
私はレンコンを箸で掴んで食べた。

(味が薄い)

というか、全く味がしない。
昨今の減塩ブームには嫌気がさしている。

確かに、塩分の摂りすぎは身体に悪い。
しかし、こんなに味のしないものを食べ続けて長生きすることに何の意味があるのだろうか。

長生きをとるか、食の愉しみをとるか。
選択の自由が人間にはあるはずだ。
しかし、家庭を持つとその自由は剥奪される。

妻が白だと思っている考えが、私にとって黒になることがあるし、私にとっての白が妻にとっての黒になることもある。

いや、そもそもこの世界にはグレーしか存在しないのかもしれない。

私は味のしない筑前煮を食べ終えて、冷蔵庫から納豆を取り出した。
納豆をかき混ぜて、備え付けのタレをいれて、その上から更に醤油をかけた。薄味の料理しか出さない妻への、せめてもの報復だった。

食事を終えて、リビングで読書をする。
この時間だけが、私の唯一の安らぎだ。

いま読んでいる本はテッド・チャンの『息吹』という小説だった。
寡作で知られるテッド・チャンは「読む価値のあるものしか世に出さない」と公言している。だから、極端に作品数は少ないがそれだけに作品のクオリティは高い。

私が勤めている会社はかなりのブラック企業で、休日などほとんどないうえに休日出勤や残業などは当たり前だ。

だから、この読書だけが私のホワイトな時間なのだ。


「ちょっと、あなた」

リビングの扉の前で、鬼のような顔をして妻が立っている。

『ん?どうした?』

「これは何?」

妻は一枚の紙をテーブルの上に置いた。

そこにはキャバレークラブ セブン と書かれている領収書があった。

『ああ、これは取引先の接待で….』

「嘘よ!浮気ね!!」


こうなると、妻は手が付けられない。

とかく、女性というのはグレーを黒にしたがる生き物だ。

いや、というより白か黒かのやりとりそのものを楽しんでいる気さえする。

私の家庭は、時折こういった妻の誤解でグレーな空気になる。



リビングの窓から満月が見えた。

真っ黒な闇夜を明るく照らすお月様は、私のことを笑っているように見えた。












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