ショートショート(34話目) Ⅼobster

六本木のタワービルからは東京の街並みを見下ろすことができた。

夏のにおいが開け放たれた窓から漂ってくる。


結衣はこの日のために用意したという真っ赤なワンピースを着ていた。

僕らが付き合いはじめたのは6年前だ。

当時高校1年生だった僕と結衣は、何度かのデートを重ねて付き合いだした。

お互い、それほど話すのがうまくなくて、僕らのデートは静かに過ごすことが多かったけれど、僕は結衣といる時間が幸せだった。


ワインの美味しさなんて分からないのに注文したシャンベルタン・グラン・クリュを僕らは飲んで、結衣は美味しいとも美味しくないとも言わなかったけど、表情を見る限り苦手な味ではないようだった。

メインディッシュはオマール海老のポワレで、テーブルにおかれた瞬間に結衣は「うわあ」といって笑顔になった。

結衣は海老が好きだったから、僕は東京で美味しい海老料理の店を探してこの店に行き着いた。

今日は結衣の誕生日だった。


「それにしてもさ」

『ん?』

「ユウ君がプロ野球選手だなんて、いまだに信じらないよ」

『そうか?』

「うん。だって、出会ったばかりのユウ君はそんなに凄い選手じゃなかったし」

『いまでも、そんなに凄くはないよ』

「そんなことないよ。1軍の試合で登板してるだけでも凄いのに、今年はもう7勝もしてるんだから」

高校を卒業してすぐにドラフト6位で東京スターズに投手として入団した僕は、1年目をファーム(2軍)で過ごし、2年目に1軍登板を果たして5勝を挙げ、3年目には8勝を挙げた。

4年目の今年はシーズン前半だけで7勝をあげていて、ハーラートップに立っている。

このままいけば、最多勝も射程圏内で、そうなれば来年以降の年俸も一気に上がるだろう。

『来年はもっと豪華な食事ができるかもな』

「そんなに豪華なところにいかなくてもいいよ。それよりさ、ユウ君」

『ん?』

「オマール海老って不老不死の能力を持ってるって、知ってる?」

『そうなのか?』

「うん。でもね、発見されたオマール海老の最長老記録はせいぜい140年くらいなんだって」

『全然不老不死じゃないな』

「うん。オマール海老ってね、たいてい脱皮に失敗して死ぬんだって。だから、脱皮に成功し続ければ、理論上は不老不死」

『ふーん』

結衣はこういうことをよく知っていた。

オマール海老は想像以上に美味しくて、僕と結衣は大満足だった。

こんな幸せがいつまでも続くと、そう思っていた。



~~~

その年、シーズンの後半に入ってからも僕は順調に勝ち星を重ねていった。

しかし、10勝目を挙げたころ、右腕に違和感を感じることが多くなってきた。

上腕三頭筋に常に張りがあるのだ。

最初はただの筋肉痛だと思った。

だが、登板を増していくごとにストレートの球速が落ちてきて、僕は病院で検査をすることにした。

MRIで検査をした僕は医師から「肘の靱帯がかなり損傷しているね」と告げられた。

小学2年生の時から投げ続けた右肘はすでに限界に達していた。

靭帯は損傷すれば、決して自然に元に戻ることはないそうだ。

『あの、僕はどうすればいいですか?』

そう尋ねると、医師は「トミー・ジョン手術がある」と言った。


かつてメジャーリーグで288勝を挙げた投手、トミー・ジョン。

彼もまた現役中に肘の靭帯を損傷した選手の一人だった。

フランク・ジョーブによって開発された靭帯移植手術は当時、成功率1%と言われていたが、トミー・ジョンはこの手術を受けることを決意する。

靭帯の回復に成功したトミージョンは、その後長く現役で活躍を続けることになる。

手術の名前には開発者の医師の名前を入れるのが通常だが、この手術を開発したフランク・ジョーブはあえて自分の名前をつけず、『トミージョン手術』と命名した。

この手術を受ける選手は近年増えてきており、かつてほどリスクのある手術ではなくなっている。

ただし、手術後はリハビリに約1年半かかる。

つまり、およそ2年のシーズンを棒に振ることになる。

僕は医師に『球団と相談してみます』と言った。



球団との話し合いは思っていたよりスムーズに進んだ。

僕の要求はいまから2年間試合に出場しないこと。

球団からの要求はそのぶん来年以降の年俸を落とすこと。

お互いが合意に至り、僕はトミージョン手術を受けた。

肘がよくなれば、いまより良い球が投げられるかもしれない。

そう思った。



~~~

トミージョン手術からほどなくして僕はリハビリをはじめた。

最初のうちは右手に全く力をいれることができず、ものをつかむことすら困難だった。

自分の腕ではないかのような感覚があった。

(本当にいままでみたいに投げることができるのか?)

僕は不安でいっぱいだった。



トミージョン手術から半年が経ち、僕はキャッチボールをはじめた。

焦りは禁物だとわかってはいたものの、やはり気持ちは焦った。

僕はリハビリを続け、少しずつ右腕が元に戻っていることに気付いた。

これならば復帰もできそうだ。


手術後1年が経過して、僕は2軍のマウンドに立った。

右腕の違和感は消えていた。

初球、僕は力いっぱいのストレートを投げた。

球速は144km/hだった。

手術前の僕のストレートのMaxが147km/hだから、かなりスピードは戻ってきている。

2球目はスライダーを投げた。

打者のバットが空を切り、ボールがミットに収まる。

間違いなく、調子は戻ってきていた。

僕はその日、2イニングを投げ、被安打1、失点0と好投した。

早く1軍での登板がしたかった。

僕はそれから毎日ブルペンで投球をし続けた。

1軍復帰を夢見て。


~~~

手術から1年8カ月後、僕は予定よりも少しだけ早く1軍復帰を果たした。

観客が拍手で僕を迎えてくれた。

僕はこの日、6イニングを投げて1失点の好投をした。

勝敗はつかなかったけれど、またプロの世界で闘えると僕は思った。



1軍登板を果たした夜、僕は久しぶりに結衣と会って話をした。

結衣は僕のことをずっと心配してくれていたようだった。

僕は結衣に「もう大丈夫だ」というと、結衣は笑顔で『よかった』と言った。


しかし、その日の深夜のことだった。

ジンジンとした肘の痛みで目が覚めた。

割れるように、右腕が痛い。


僕は翌日、病院に行って検査をした。

肘の靭帯が炎症を起こしていた。

医師は「手術後、少し投げすぎてはいませんか?」と言った。

確かに、僕は焦りから以前より多くの球数を投げていた。

トミー・ジョン手術をしたあとは、できるだけゆっくりと肘を直していくのが理想らしい。

僕は『すいません。つい焦ってしまって』というと医師は「気持ちはわかりますが、焦らずに治してください」と言った。


それからも、僕の肘の違和感は続いた。

医師からは炎症が悪化しているから、しばらくはボールは投げないほうがいいと言われたが、結果を出さなければ解雇になる世界だ。

そんなに悠長に構えてはいられない。

気持ちだけが焦った。


半年、1年と時間だけが経っていく。

トミージョン手術をしてから3年が経ち、僕は再び2軍のマウンドに立った。

マウンドから、ホームベースまでがやけに遠く感じる。

僕は全力でストレートを投げた。

ボールは狙っていた所から大きく離れてキャッチャーのミットに収まった。

球速は128km/hだった。

僕はその日、1イニングを投げ、被安打3、与えた四死球は3、3失点でマウンドを降りた。




~~~



引退までに、それほど時間はかからなかった。

球団からは「もう少し頑張ってみたらどうだ」と言われたけれど、もう僕に闘う気力は残っていなかった。

生涯成績は23勝9敗。防御率2.70。

それが僕のプロ戦績の全てだ。


引退した日の翌日、僕は自宅のマンションに結衣を呼んだ。

いま住んでいるマンションも引き払わなくてはいけない。

収入の途絶えた僕に、いまのマンションの家賃を払っていけるだけの余裕はない。


結衣は「長い間お疲れ様でした」といって微笑んだ。

僕は『ありがとう』と結衣に言った。

結衣はそれから料理を作ってくれた。

今日は2人だけの引退パーティーだった。


結衣の作ってくれた料理のなかに、オマール海老のポワレがあった。

僕が『あ、オマール海老だ』というと、結衣は「そうそう。好きでしょ、オマール海老」と言った。

オマール海老は理論上は不老不死だ。

だけど、脱皮に失敗すれば死ぬ。



結衣はそれからスーパーで買ってきたチリ産の赤ワインをだしてきて、僕らは乾杯をした。

僕は赤ワインを飲みながら結衣に『結婚しよう』と言った。

結衣は笑顔で「はい」と言った。 



僕の人生は始まったばかりだ。

25歳の僕はきっと、まだまだ脱皮することができるはずだと、そう思った。







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