花咲かばあちゃんのいる小さな駅で
南ドイツにあるベネディクト派修道院の敷地内に設けられた列車の駅。正式には駅未満の「停車場」らしいのですが、そこはおおらかに駅としておきましょうか。
1898年に開業して以来、この駅から数多くの修道僧が布教のためにアフリカへ、アジアへと各地に旅立っていきました。彼らの中には病を得てまた戻ってきた者もいれば、また迫害されて遠く離れたその地で一生を終える者もいました。
現在の駅から少し離れたところに立っているトタン板で作られた小屋は開業当初の駅舎です。そして今は写真家のフォトスタジオとして使われている2代目の駅舎の外壁にはアフリカで布教する修道僧の姿が描かれています。
おばあちゃんがおじいちゃんと駅の脇にある家に越してきたのは1958年のこと。
鉄道会社につとめるおじいちゃんが仕事で事故にあい、より軽い業務にという会社の取り計らいでこの駅にやってきたのです。
主な仕事は列車が行き交うごとに手動で踏切を開け閉めすることと、窓口でおばあちゃんの手書きの切符を売ること。おばあちゃんとおじいちゃんは鉄道の仕事と3人の子育てを二人三脚でこなしたのです。そしておじいちゃんが亡くなった後、おばあちゃんは鉄道の仕事を一人で引き受けました。
おばあちゃんは列車の仕事が大好きでした。1994年に踏切が廃止された後も、おばあちゃんは毎日毎日切符を売り続けました。定年を迎える年齢になってもその仕事をやめることはありませんでした。だって、それがおばあちゃんの生き甲斐だったのですから。
そんなおばあちゃんの仕事に変化が訪れたのは2002年のこと。鉄道会社が乗客に便利なようにと切符の券売機を設置してしまったのです。おばあちゃんにとっては、一大事。大切な切符をお客さんに手渡すことができなくなってしまったのですから。
さて、みなさん、なにが起きたと思いますか?
なんと一計を講じたおばあちゃんは券売機に張り紙を貼ったのです。「故障中」ってね。こう書かれていたら乗客はまたおばあちゃんの所で切符を買うしかありません。でもほんの少したっておばあちゃんのしたことは鉄道会社にばれてしまって、切符を売る仕事はなくなってしまいました。
仕事をとられて意気消沈したおばあちゃん。けれどもう一つライフワークが残っていました。それは駅とその周りを花できれいに飾ること。
おじいちゃんが生きていた時代は2人で、亡くなった後はおばあちゃんが一人で春と夏のシーズンには花咲く駅にと変身させていったのです。
その昔、鉄道会社が主催する「花いっぱいの駅」コンテストで何度も優勝したことがあります。コンテストの賞金は次の花を買うために使いました。
褒められるのも目立つのもきらいなおばあちゃん。そのことを聞かれると照れながら「だって、きれいで美しい駅で乗り降りしたいと誰もが思うでしょ」とあっさり言います。毎朝夕に駅を箒ではくのもおばあちゃんにとっては乗客に気持ちよく過ごしてほしいという気持ちから出た当たり前の日課だったのです。
見る人の気分が明るくなるようにと種から育てたオレンジ色のマリーゴールド。列車の中にいる人にもよく見えるようにと背の高いひまわり。元駅舎の窓には寒さにも強く長持ちするゼラニュウムが定番です。
水やりはタンクにためた雨水をじょうろに入れてゆっくりと。おばあちゃんにとっては冷たい水道水なんてのは植物にとってもってのほか。ホースを使ったら水圧で土が流れ出すから絶対に使いません。雑草を見つけたら小型ナイフでちゃっと刈り取り、除草剤も殺虫剤もおばあちゃんは手に取ったことがありません。
線路にはこぼれ種で増えたキンギョソウも咲いています。
花咲かばあちゃんは94歳になりました。今もひとりで駅の脇にある家に住んでいます。身の回りのことは一人でこなせますが、足が悪くなり、すべてはゆっくりとしかできなくなってしまいました。なにをするにもよっこいしょ、と心の中で掛け声をかけてから。
かつては家の周りをびっしりと埋め尽くしていた花の海はずいぶんと小さくなってしまいました。
でも駅だけは花咲かばあちゃんの志を継いだ人たちが花を絶やさないようにと気を配ってくれるので、ここで乗り降りする人たちはこれまでも変わることなく咲き乱れる花を楽しむことができます。
これからも駅が花にあふれ、利用する人の心をなごませてほしい、それがおばあちゃんの心からの願いです。
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