心の中に白バラを
ゾフィー・ショルの物語と植物をつなぐものは彼女がメンバーだった大学生らによる抵抗運動グループ名につけられた白バラだけ。それも恣意的に付けられたもので格段の意味はないらしい。
それでもここに書かずにはいられない。
ナチス政権下で繰り広げられた政府の蛮行と戦争に多くの人が目をつむり、口を閉ざす中、自由と平和と公正の実現を国民に呼びかけるビラを撒いたことで国家反逆罪に問われ、21歳の若さで亡くなったゾフィーと「白バラ抵抗運動」のことを。
◎白バラ記念館へ
ゾフィーと白バラ抵抗運動について知るには彼らの活動拠点だったミュンヘン大学構内にある「白バラ記念館」が最適の場所だ。地下鉄の「大学駅」を下り、地上に出るとすぐそこは「ショル兄妹広場」。広場の後ろにミュンヘン大学の建物が構えている。
建物の中に足を踏み入れるとゾフィーと兄ハンスがビラを撒いて管理人に見つかり、逮捕されるきっかけとなった大講堂に出る。講堂にはゾフィーの胸像と白バラメンバーを追悼する記念碑があった。
講堂脇にある白バラ記念館に入ってみよう。真っ先に目に飛び込んでくるのは一枚の白黒写真。1933年、先ほど通ってきた講堂に鉤十字の旗が掲げられ、焚書前に学生たちが集う様子が写っている。智の殿堂であるはずの大学もまたナチスの加担者であったという事実を突きつける戒めの一枚だ。
◎ビラでナチス政権を批判する
続いて展示されているのは白バラが作製した6種類のビラ。白バラ抵抗運動の精神的支柱とも言うべき存在だったのはゾフィーの兄ハンスと友人のアレクサンダー・シュモレル。この2人が中心となって最初の5枚を起草し、後に運動に加わったミュンヘン大教授、クルト・フーバーが6枚目のビラの主な書き手だった。
そこにはポーランドでのユダヤ人大虐殺という人間の尊厳を侵すナチ政権の蛮行を弾劾し、国民にそのような政権に加担するのをやめるよう訴える内容が綴られている。
ゾフィーとフーバー教授をのぞく4人の白バラメンバーはいずれも医学部生だった。衛生兵としてフランスや東部戦線に送り込まれ、戦争の惨状を目の当たりにしたことが政権への批判と反戦活動へと駆り立てた。
白バラの手法はビラを大量に複写し、電話帳などで探し出した不特定多数の人々に送付し、さらに他の人への回覧を依頼するというもの。
政権を批判するようなビラを作ることはもちろん、受け取ったビラを保管するだけでも罪とされ、他の人に渡したりなんてもってのほか、すぐさま警察に通報するのが義務とされた時代のこと。展示物の中には、警察に届け出のあった封筒もあった。
◎生誕100周年にインスタグラムで甦ったゾフィー
さらに進むと真ん中に短髪でうつむくゾフィーの顔写真が映るタッチパネルがあった。ゾフィーは白バラ抵抗運動で命を落とした唯一の女性ということでスポットライトがあたることが多い。
私が白バラに注目するようになったのも2021年5月9日がソフィーの100歳の誕生日にあたり、その記念として公共放送SWRが主導するインスタグラムでゾフィーが蘇ったことにある。
インスタグラム(@ichbinsophiescholl)は彼女がミュンヘン大学に通い出して白バラの活動に参加し、逮捕される翌年の2月18日までの約10カ月の日々をリアルタイムで再構築した。軸となるのは彼女の日記や手紙、また当時の社会状況などを織り込まれている。
そこでは、社会と戦争を憂い白バラの活動にのめりこんでいく一方で自然を愛し、職業軍人で前線にいる恋人フリッツとの関係に悩んだり、安否を気遣って心を揺らす21歳の等身大の女性としてゾフィーは描かれている。
◎ナチスの少女統制組織リーダーの過去も
ここで白バラに加わる前の彼女の歩みも振り返ってみよう。平和主義者で反ナチを隠そうとしなかった地方政治家の父と敬虔なキリスト教信者だった母、そして兄、2人の姉、弟という家庭環境で育った。
家は禁止されていたラジオ放送を聞くなどリベラルな環境だったが、ゾフィーは義務づけられた14歳より早い13歳でナチスの少女統制組織「ドイツ女子同盟(BDM)」に入団。160人の少女を率いるリーダーにまで上り詰めている。
BDMのリーダーとして活動していた当時のエピソードにゾフィーの性格や考え方の一端がうかがえる。遠足で全員からお小遣いを徴収してレモネードを買い、持ってきたお弁当を全部ひとまとめにし、各人に目隠しをして好きなものをとらせたというのだ。貧しい家庭の子も裕福な子も平等にというのが狙いだった。
そしてBDMの活動を続けながらも父が政権批判したことに連座逮捕されたり自分の求めるものと政権の行為とが相いれないことに気づき距離を置くようになっていった。
◎真っすぐな信念と正義感の持ち主
医学部生だった兄ハンスの後を追うようにドイツ南西部のウルム市からミュンヘン大に入学し、哲学と生物を専攻するようになったのは1943年5月3日のこと。
夏ごろから関与するようになった白バラ抵抗運動ではビラを郵送する切手や封筒の調達や会計といった実務面を担当した。ただビラの内容に関わらなかったとはいえゾフィーが覚悟をもって加わっていたことは逮捕後の調書からも分かる。
取り調べに対して子供がいるメンバーに嫌疑がかからぬよう注意を払い、「ナチス政権のやっていることは精神の自由を制限するもので、それは私の考えと矛盾する」と言い切った。さらに「私は自分の国の人たちに最善を尽くしたという思いに変わりはない。だから自分のやったことに後悔はしていないし、それによって起きたことの責任を負う覚悟がある」と信念を貫き通した。
あまりにも純粋で、並外れて真っ直ぐな信念と正義感の持ち主だったのだと思う。自分に対する告訴状の裏側に「自由」と書き残したゾフィー。自分の求める自由と目の前の現実の乖離に失望し、それを見てみぬふりをすることができなかった。
けれど、その信念をちょっとだけでも曲げていてくれたら、ほんのわずかなずるさを持っていてくれたならーそんなことをどうしても思ってしまう。大学の建物を出て、広場でくつろぎ、談笑する学生の姿を見るとこんな平和なキャンパス生活をゾフィーにもおくらせてあげたかったと無念さが一層こみ上げてくる。
◎白バラの物語は終わらない
白バラのメンバーはミュンヘン市東部にあるペアラッハーフォレスト墓地に埋葬されている。ゾフィーのお墓の上に立つ黒い十字架は同じ日に死刑になった兄ハンスの十字架と手をつなぐかのように連結され、少し離れたところにクリストフ・プローブストの十字架が立っている。
結論ありきの一方的な裁判で死刑判決が下った1943年2月22日。その当日に墓地隣にあるシュターデル刑務所で3人の斬首刑が執行され、さらに3人のメンバーがその後次々と捕えられ、死刑になった。
ここまで読んで「まあそれでも100年も昔の人の話だからね」と思った人がいるかもしれない。でもハンスの元恋人で、白バラ運動にも加わったことで2年間投獄されたトラウデ・ラフレンツさんという女性は現在も102歳で存命という。ゾフィーだって生き延びることさえできていれば100歳の誕生日を迎え、自らの言葉で自分の物語や思いを語ることだって不可能ではなかったのだ。
インスタグラムは2月に入って彼女の生涯の最終章に近づいてきた。どうか終わりが来ませんようにと必死で願ってもゾフィーの運命の結末も歴史も変えることはできない。
私たちはゾフィーたちを通じて平和や自由や公正さが決して当たり前のものではないということを改めて思い知らされた。もろく、儚く、弱く、ちょっとしたことで失われてしまう可能性だって秘めている。まるで白いバラが突然の嵐で散ってしまうかのように。
だからこそ一人一人が自らの手で大切に平和や自由の芽を育て、慈しみながら花を咲かせ、みんなで守ってやらなければならないのだ。それこそが白バラ抵抗運動の精神なのだと思う。そうしてゾフィーたちの思いをつなぐことで半ばで途切れた物語は彼らの死も時空も超えて続いていく。