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自覚なく自ら不幸せを導く場面も
あろうがほとんどは誰しも幸せになりたいと
願っている。

その先に思い描く姿は人の数だけさまざまだ。

そなわった個性は時を重ね更に培う事で
自己実現への手助けとなり後天的に
大きく作用しうるものに“しつけ”も顔を出す。

鉄は熱いうちに打てとばかりに子供時代、
行動習慣を育てることを意図された行為で
主に基本動作だったと記憶している。

“あいさつをする”、“うそをつかない”、
“片づける”,“返事をする”等々だろうか。

これらを身体に刷り込むかのように
呪文のように盲目的に唱えられ、
時には脅しも手伝った。

この機を逃してはと大人たちも用意周到だ。

幸せになるため・・・

当時、何故そうするのかの説明自体乏しかったと記憶していたが理解できないだろうとした
決めつけの方が優先され諦めも漂っていたこともあり問いかけ自体を忘れていた私もいた。

結果オーライなのだから・・・
これでいいんだと・・・

それほど常識的な手段でもあったのだろうが
純粋な意志の問いかけは唐突で動揺を
呼び起こし、そうするのが正しいとした
思い込みにも新たな側面があるのに気づかされるのは少しばかり先のこととなる。

何故、“あいさつ”するのだろう?と
思い出すとずっと考えていた気がする。

統制された関係性を築くのが目的なの
だろうか?

その役割も期待出来た。

海外で印象的な行為としてそこかしこで
それこそ老若男女問わず
「Hello!」、「Hi!」と自然に、
和かに挨拶するのをいつもではないにしろ
明らかに我々のそれより多い場面で見聞きしていた。

ここでも何故、“あいさつ”するのだろう?と
“彼らは“と枕詞を添え考えていた。

多民族で狩猟民族でもあり生きる術として
敵をつくらまいとした防衛本能がそうさせてるといった損得を基軸に極端な解釈をしたりもしていたが少なくとも”心閉ざさず“
“受け入れる”サインなのでは?と純粋で気持ちの良い効果を見出し我々のそれも実は一方的ではなく寄り添うためのコミニケーション手段なのでは?といった考えが部屋を明るく照らす灯りのスイッチのように閃きをともなったのが懐かしい。

“あいさつ”は他者に解放と感謝と尊敬の
積極性をともなう行動だと思い知ったのを
嬉しくも感謝している自分がいた。

うまく説明できなかったのは当時の大人たちだけでなく私もそうだったのだ。

行為は使う者の意図、能力により様々な
顔を見せる。

”幸せ“もそれを感じとれる能力次第なのでは?と感じている自分を最近嬉しく思う。

家内と2人の子供達が教えてくれた。


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