閻魔大王様に説教する気満々だった話
♪ぴんぽんぱんぽ〜ん
このブログを書いているのは
「馬鹿」な「大したことない一般人」です。
好き勝手に主張しておりますので、ご自身の体調や
精神にご注意の上、
自己責任のもと
ご覧下さい。
ぴんぽんぱんぽ〜ん♪
私は自身の本質が愛と光であり、自分は地球に安心
をお届けにやってきた案内係だと思っています。
だから、天国も地獄もあると言えばあると思うし、
無いと言えば無いと思います。
現在亡くなった方は6次元以上に居るのではないかと
考えています。6次元以上は「思いがすぐに具現化」
する場所だと思っています。だから、生前の自分が
抱いていたイメージが、死後、そのまま「環境」に
なるのではないかと考えています。
それは例えば「地獄にはこんなものがあって、
こんな体験をするところで…」と想像している人が
「恐らく自分は地獄行きだろうな」と思いながら
亡くなれば「それ」を映し出すだろうし、
「天国はこんなところで、そこにはこんな人が
いて、こんな体験をする事ができて…」と想像して
いる人が「恐らく自分は天国行きだろう」と思い
ながら亡くなれば「それ」を映し出すのではないか
という事です。
そして、今地球上にある宗教はそれぞれのカラーを
全面に出し「うちこそホンモノ」と主張し合って
いるように観えるのですが…
多分神様は虹色組だわ
と思うのです。お釈迦様が本物ならキリスト様
はニセモノ、とか、キリスト様が本物ならお釈迦様
はニセモノ、とか、アッラーが…とか、
何で一つじゃなきゃ本物じゃないの?
と思うからです。地球でワーワーどれが本物って
主張し合っているのを当の御本人達は「やれやれ」
「ねぇ〜。困ったね〜。」と観ながら、お茶でも
飲んで一緒に温かい目で見守って下さってるのでは
ないかと思うのですよ。
(そして、自分を大事に扱うからこそ
自分の色もあって他の人に譲るスペースもあるから
バランス良く混ざって虹色になると考えました。)
そもそも私はとある仏教団体?に所属していたの
ですが、他の神様からも学べると思うと主張したら
めっちゃ怒られました。
え、え〜…?ってドン引きするくらい。
そして、カルトって「もうしん」から生まれるの
かも知れないと思いました。
盲信、猛進、妄信、妄心…
そしてふと気が付けば、地球って「カルト」が
生まれやすい環境だったのかな〜と思いました。
教育ママとか、ストーカーとか、師弟関係とか…。
それらに共通するものは何だろう?と考えてみて
「上下関係という幻」ではないかと思います。
なぜ「幻」かと言うと、
地球外では通用しない捉え方
かも知れないと思うからです。
そもそも、神様がふんぞり返っているイメージって
ありますか?私は無いのですが…
ただの一般人に過ぎない自分でさえ
「自分の心の顕現」だと「自分」を拡大して捉えて
いるのに、様々な教えを遺して下さった方々が、
「俺の方が上」とか「私の方が偉い」とか言い出す
とは思えないのです。
更に「身体」を脱いでみたら、重なる部分はあって
も、どれ一つとして全く同じものは見つからないの
ではないかと考えています。
だとしたら、どうやって比べるの?
と思うのです。
国語のテストが98点のけんちゃんと
数学のテストが86点のゆりちゃんと
社会のテストが73点のたっちゃんと
理科のテストが37点のきいちゃん、
さて、誰が一番優れているでしょう?
って問題が出されたとしたら
教科揃えてこいやぁ〜!バ~ン!
(ちゃぶ台ひっくり返し)
ってなりません??と思って…。でも、地球のテスト
と違って、宇宙はそもそも教室も違うし課題も違う
言語も違うし住んでる環境も違う…
全部違うのに比べられるのか?というか
比べる必要はあるのか?
と思うのです。
それなのに、天国や地獄があるとしたら、それを
裁いている「閻魔大王様」とやらは何てけしからん
奴だ!と思っていました。
だって、一方的に「合格=天国」「不合格=地獄」
を決めているように受け取っていたし、だったら
前世の記憶をもっていた方が「自分がどこで選択」
した選択が「どんな結果に繋がったのか」を後に
分析しやすいのではないかと考えたからです。
それなのに記憶を消していたら、前世でせっかく
積み上げたものがパァになるなんて許せん!と
思ったのです。
そして私は「教室は安心して間違えられる場所」だと思っているので、「安心して勉学に励める環境」
を整備していないのは「職務怠慢」だと問い詰めて
やる気満々でした。
だから、「罪悪感」なんてシステムをつくるから、
みんなが怯えて自由に表現できなくなったのだと
思います!つまりそれもそちらのミスだと思います
、とがんがん訴えてやろう、更に職権乱用して、
私を地獄に落とそうとしたら全力で呪ってやろう、
と考えていました。
そして閻魔大王様を論破してやるべく、せっせと
材料集めをしている内に「地球侵略」について知り
どんどん詳細情報が入ってくるようになって。。。
宗教の違和感をきっかけに精神世界に興味をもって
入ったはずが、
なぜかどんどん宇宙に繋がっていき
「あ、そういえば私は案内係でした。てへぺろ。」
と思い出す流れになったのでした。
だから私は閻魔大王様の説教はやめて、「私教」を
立ち上げました。ただし、信者は私のみです。募集
も未来永劫しません。
なぜなら私達は「カタチが違う」のだから、自分に
合うものを見つけられるのは自分自身だけではない
かと思うからです。
私は元仏教団体所属だったのでキリスト様について
詳しくは知らないのですが、お釈迦様は「説法」を
される事はあっても「説教」はされなかったのでは
ないかと考えています。
なぜなら
「説教」は「自分の観方だけが絶対正しい」という
考えのもと正しい方へ導く目的で行われるもの
であり、
「説法」は「ものの観方を共有する為の例え話」
では無いかと思うからです。
なのに…元々おせっかいな性分な事もあって、
魂と身体のズレを感じると本人に伝えたくなって
うずうずしてしまいます。でもきっと、それぞれが
自分で課題を設定してきたのだから乗り越えられる
ギリギリのところにあるものも多いのだろうな、と
思いました。
だから「相手の自由」を尊重する為に乗り越えるの
を「信じて見守る」のも大切なのだと思います。
でも、魂の主張と身体の主張が違う場合、どっちが
優先とかあるものなのか?どっちも大切なのでは?
とふと疑問に思いました。今までの私ならこういう
時には「◯◯というスタンス」と一つに絞る事、
答えを出す事に拘っていましたが、
「臨機応変でいこう」
とあえて一つに絞らない事にしました。
答えが一つしか無いと思うのは、二元論で答えを
求めていた名残りからかも知れないと思ったから
です。
更に「答え」を出す事によって「責任」が生まれる
なら、場合によってはあえて出さないのもアリかも
知れないと思います。
だって、私の人生ゲームのプレイ「責任」は私に
しか取れません。だから、わざわざ新しい責任を
生み出さなくても責任を取る体験はできるのです。
そしてそれは他の人も同じだと思うからです。
きっと、閻魔大王様だって悪気があったわけじゃ
なくて、仕事が忙しくて手が回らなかった中、必死
に頑張っていたのかも知れない。。。
↑当時の私に言葉をかけるとしたら、こんな感じに
なります。が、今はそもそも
閻魔大王様はいない
と思っています。
だから私は、自由に生きています。
私が思う自由は「自分で責任が取れる範囲」で
自分の好みに合わせて選択する事であり、
無秩序は「責任が取れない範囲まで侵す」選択を
する事です。でもそれは無秩序を排除するものでは
なく、受け入れるものでありたいと思っています。
だって私は今「人間」なのでぱっと観ただけで自由
なのか無秩序なのか?いつでも判断できるとは限ら
ないし、それは他の人も同様ではないかと思うから
です。悪意がなくても、事故は起こり得るのではな
いかと思います。
私は何かをイメージする時に「被害者側」の目線で
考えるのは「自分は迷惑をかけない」というおごり
だったかも知れないと気付き、はっとしました。
いつでも私も「加害者側」になる可能性がある事を
忘れていたのです。でも、被害者がいない世界に
お引越しして、さてどうしよう?と思い、
ケースバイケース
で考えようと思いました。
だから、その時に合わせて自分の捉え方を変えて
お互いにNOダメージで、
飄々と軽やかに生きていきたいな〜と思いました。
最後まで読んで下さって
ありがとうございました🙇💕
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