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ハサミがなければ生きていけないと思い込んでいる私達

私達は現在
ハサミがなければ…


ハサミさえ大量にあれば…と
ハサミに執着しながら
生きている気がします。


でも、
遠い昔は
ハサミがなくても
そのままで暮らしていたのです。


ということは
ハサミがなくても
生きていけるはずなのです。


それなのに
なぜ
こんなにも多くの人が

『ハサミがなければ生きていけない』

と思い込んでいるのでしょう…


ハサミは
ある人のところには大量にあるし
無いと感じる人のところには
ありません。


それは精神世界の視点で見れば
ある人は『たくさんある』と
感じるから、更にたくさんの
ハサミを引き寄せるのに対して


『これしかない』と思う人は
引き寄せの法則で「ない」を
引き寄せて、ハサミがない現象を観測する
悪循環にはまっているからだと

私は思います。


そして誰もが
ハサミを欲して
ハサミさえあれば幸せになれると
思い込んで生きています。


でも、ハサミは本当は
ただのツールなのです。












ここまで読んで
『ん?』と思われた方

ハサミを全て
お金で
読んでみて下さい。


恐らく
『違和感』が消えたのでは
無いでしょうか?


私はその

『違和感』に
『違和感』を覚えています。



ハサミはツールで
使うもの。
目的ではありません。

だから目的を達成する為に
ハサミが手元に無い時は
別の手段を考えたって
良いのではないかと思います。

お金も
ツールなのではないでしょうか?

例えば
ツールが無くても愛がある場合
親戚から手作りの洋服をいただいて 
こちらからお返しに
手作りの梅干しを贈ったり

髪の毛を綺麗に整えてもらったお礼に
爪先を綺麗に整えてあげたり

厚意と厚意のやり取りで
成立つ瞬間は
今までに多くの人が
体験しているのではないかと思います。


それなのに
なぜ私達は一つのツールに
拘り続けているのか


それは
私達の「労力」と引き換え
だからではないかと考えています。

「労力」の「対価」にされた時から

「労力」は自分自身の一部だから
粗末に扱う事は
できなくなってしまった

のではないでしょうか?


でも、本当に「労力」に
「見合った対価」を手にしていると
『感じている』人は少ない
のではないかと思います。

だから、いくら手元に入ってきても
『これしかない』と
思ってしまうという事は無いでしょうか?

そして、その罠にはまって
苦しんでいる可能性が
あるのではないかと思っています。


ではそれが

誰かが楽して
「自分の代わりの労力」を
手にする為に
仕組んでいたとしたら?


頭では「理解」していても
深層心理で「ツール」に

拘っている事を『自覚』
していないとしたら?








自分の労力に見合わなければ
『少ない』と感じるのは
自然な事だと思います。

でも、ちょっと実験感覚で

『これだけあったら
何ができるかな?』

って
考えてみるのはいかがでしょうか?


1ヶ月の家賃を払えるという事は
貴方の力で
安心して休める場所を確保できるという事
水道代が払えるなら水も確保できるという事
電気代が払えるなら
人間が発明し発展した
科学力の恩恵に授かれる環境を整えているという事ガス代も払えるなら
温かいお湯も美味しいお料理も
その気になればいつでも手に入れられる
環境を整えているという事


これだけでも凄いのに
貴方の手元にはまだ

残っている

ものも

「ある」

のでは無いでしょうか?

更に自分の他に
家族がいる場合はその人達の分も
確保している事になります。


自分の「労力」に「見合った」という見方だと、

相手が正しく評価してくれない限り
不満を抱き続けます。


もしも評価する相手が
あえて正しく評価していないとしたら?
相手が変わるのを待つより
自分の「捉え方」を変える方が

楽に現状を変える事ができます。


「こんなにたくさんの事ができる」

自分なのは
『手に入れた』
過去の自分が頑張ってくれた証と思えると

自分自身にも感謝の気持ちが
わいてきませんか?

実は凄い自分の事を
罠にはまって過小評価していたのかも
知れないと思いませんか?

更に「ツール」に価値を与えているのは
「多くの人の信頼」ではないかと
考えています。

だから、災害時のコンビニで
「札束より食べ物自体が欲しい」と
思う人が、札束を欲する人を上回った場合
ただの紙きれになる事もあるのではないか
と思うのです。

だとしたら紙きれに振り回されるより
周りの人の温かさや、本当の豊かさに
感謝しながら生きていく事を
私は選びたいなと思いました。

最後まで読んで下さって
ありがとうございました🙇💕

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