2-1-3 可能性としての自分/自分の可能性
自分探しをしている自分は自分ではないのか。
自分という言葉にはどれだけの可能性があるのか。
という疑問で前回終わっていましたね。
しかし、これらの疑問に僕は答えるだけの意欲がありません。
なぜなら、自分ではないのか。という問いそのものがもうすでに破綻していますし、可能性を、どれだけあるのか、という形で問うことは途方もない情熱が必要だからです。
しかも、可能性を問うというのは自分については行うことができないと思います。
なぜなら、可能性というのは自分では分からないからです。
なぜわからないか、という話をするとすごく長くなりそうなので、詳説することは避けたいのですが、そうしているとそれですべて終わってしまいそうなので、話してみましょう。
まずここで重要だと思われるのは、可能性としての自分と自分の可能性は異なるということです。
可能性としての自分は一つとして語ることができます。一つの文脈に沿って語ることができる、ということです。
しかし、自分の可能性というのはとても多くの文脈に沿って語らねばなりません。
しかも、それを語ろうとする人ほど、一つの文脈の固執しているか、文脈を放棄しているかしているので、一つの文脈としてとても多くの文脈で自分を語るのはとても難しいですし、そもそも面倒くさいのです。
そんな感じの理由で、自分を対象として語ることで自分の可能性を語ることはできるとは思いますが、自分の可能性を知るということ、表現するということは難しいと思います。
可能性としての自分や自分の可能性というのは他者が表現してくれます。それは自分が可能性としての他者として他者の可能性を表現するのと同じことです。
自分では自分を語る対象にして自分語り的に可能性としての自分を語るしかなくなるのです。
けれども、それを行いすぎると、可能性と現実の間に絶望してしまうことになります。
キルケゴールの『死に至る病』もそのような絶望について考察として読むことができるかもしれません。
現代の人々の言う、「本当の自分」や「自分探し」はキルケゴールほど切羽詰まったものではありませんが、可能性としての自分を語ろうとするあまりに絶望する可能性があると思います。
まあ、絶望したからなんなんだ、って思うかもしれませんけれど。
現代では絶望に気づくことも難しいので、もしかすると、「本当の自分」というのはただの過去である可能性もあるかもしれませんね。
ほら、話が長くなってしまいました。
次は、「可能性としての自分や自分の可能性というのは他者が表現してくれます。それは自分が可能性としての他者として他者の可能性を表現するのと同じことです。」という部分について考えてみましょう。