ある本の137-147頁と戯れる

A「可能世界やループものの物語にどうも馴染めないのは、時間は「枝分かれ」するのではなく進む部分と取り残される部分とに分かれているような気がするからだ。戦闘機とそこから撒かれるフレアみたいに。」(139頁)

B「そこここに居残りしているのは今の僕にならなかった僕だ。前回の話とはまた少し(たぶん)違う意味で「僕でなくもない」ひと。本体がミサイルを躱すために撒かれたフレア。世界の素っ気なさや人々のいびつな欲望に出会い、そこに居すくまっている僕でなくもない彼ら──と便宜的に呼ぶとして──は今の僕を見てどう思うだろう。彼らを裏切っているんじゃないかという不安にずっとどこかでつきまとわれてもいるし、ずっと彼らがいるところにいる気もする。どうしてこんな話をしてるんだろう。「だから」なんだという話をしようというのか。言葉が本体であとはぜんぶフレアなのかもしれない。フレアみたい(/)に時間と一緒に居残る言葉もあるだろうか。少なくともそういう言葉との、というか、言葉とのそういう出会いかたを求めて本を読んでいる気がする。」(140-141頁)

C「本を読みながら映画を見ることはできない。だから映画の本を読むためにわざわざ映画を見なくてもよい。」(143頁)

D「ドゥルーズは「見て、書いた」が、「見ながら書いた」わけではない。これはたんに彼の時代にVHSもDVDも存在しなかったからというわけではなく、いくら映画を見直すための手段が充実しても、見ることと書くことのあいだには原理的でフィジカルな距離が存在している。そこに滑り込むものをたんなる忘却や思いちがいとして放逐しようとすると、見て、書いて、見て、書いて、見て……とえんえん見まちがいの不安に怯えながらくわしいだけの描写を積み上げていくことになるだろう。どうせ見ながら書くことはできないのだから、見ることと書くことの「距離」を条件にしたような書きかたを考えたほうがいいのではないか。見ることと書くことのあいだの読点を足場にすること。これはべつに哲学者や美術史家にとってだけでなく、ひろい意味で「経験」を書くことの源泉とする小説家や詩人にも当てはまるはずだ。」(144頁)

E「僕は歩いていて、鳩の死骸だと思うかいなかのあいだに、すでにつぎの一歩は踏み出され、そうするともう新聞紙でしかないものがある。その驚きとともに経験は意識化される。その時点の「新聞紙だ、と思った」から経験の書き出しをおこなってしまう。そこに「〜だと思ったら〜だった」というある種の関数がやってくる。そして一歩前の僕は実際に「鳩の死骸だ(と思っていた)」という経験をしている。これらの要因から「新聞紙だと思ったら鳩の死骸だった」というイメージが刻み込まれてしまったのだろうか。やはり見ることと書くことのあいだには不思議な回路が埋め込まれているようだ。」(145頁)

F「ふたつめ。「幻肢痛」という言葉を聞いたことがあるかもしれない。欠損した体の一部に感じる痛みのことだ。ない指が、あるかのように痛む。しかし痛みが激しくなり、そこに指があるとしか思えなくなったとき、指に目を向けてみるとそこに指はやはりなく、(/)「このひとはつかのま、そこに「ある」はずの指が「ないかのように」感じられる。すなわち、実際には「ない」にもかかわらず、「ないかのように」感じられる」。こんどは事実に反した比喩を先まわりして知覚するのでなく、「ない」という事実を知覚しているのに、それが比喩としか思えないという反転が起こっている。「反実仮想」の「実」と「仮」が圧着する。指は、ないかのようにない。
すると、貞久が言うように「なにも居ぬごときが時の金魚玉」(阿波野青畝)という句が、実際は金魚がいるのにいないかのように静かな金魚鉢を示しているのでなく、「いないかのようにいない」静けさを示しているようにも思えてくる。事実を比喩として提示しているのか、比喩が事実として迫ってくるのか、もはやわからない。」(146-147頁)

G「見ることと書くことのあいだにある回路は、この事実と比喩が識別不可能になる点をめぐっているように思える(『シネマ』にはこれに近いことを指す「結晶イメージ」という概念が出てくる)。見たものを書いているのか、頭のなかに書いてしまったものを見ているのか。それらは前後し、すれ違い、反転する。これはたんに見まちがいを擁護するということではない。「見て、書く」ことの読点に、哲学さえもそこに含まれるフィクションとしての創造の原器を、僕は見ている。」(147頁)

いきなり引用群から始まってびっくりしたかもしれない。また、その引用群はまったく親切ではなく、引用者の注釈もなく、さらには本の題名すらなく引用されていたので「なんだこれは?」と思われたかもしれない。これらはすべて福尾匠『ひとごと──クリティカル・エッセイズ』からの引用で()のなかの頁数はその頁数である。

僕は戯れようと思ったのだ。『ひとごと』の137-147頁と。

なぜこの箇所、ここには二つの文章「スモーキング・エリア#4 時間の居残り」(137-141頁)と「見て、書くことの読点について」(143-147頁)という文章があるがなぜこの箇所を選んだのかと言えば、特に理由はない。なんとなくここにしようと思ったのだ。この本の並びは「なんとなく」で決められている。僕がそう思っているわけではなく福尾自身がそう言っている。(もう少し細かい「なんとなく」ではある。ただ、それは全体を知っているからそう言えるだけでこの二つの文章の繋がりは私たちが思う「なんとなく」よりは多少決まったものがあるくらいの「なんとなく」である。)僕はこの二つの文章を読んだら、なんとなくだが、福尾と私の関係性がわかるような気がしたのである。

私はこの本を一読した。いや、精読とは言えないが一読とは言えないくらいには読んだ。もちろん読みには偏りがある。例えば今回読んだものでも、「スモーキング・エリア#4 時間の居残り」は二、三回、「見て、書くことの読点について」は七、八回読んでいる。そして、全体のなかで二つ読むならこの二つだと思った。後者はこの本のなかでいまのところ一番好きだし、前者はこの本のなかでいまのところ一番引力と斥力が働きそうな予感があるからである。

AとBは「スモーキング・エリア#4 時間の居残り」からの引用でCからGは「見て、書くことの読点」からの引用である。もちろん「スモーキング・エリア」は「#4」と書かれているように「スモーキング・エリア」という一応一続きの文章(これも福尾自身がそう言っている。)第四回の文章である。ちなみにこの文章は第五回まであり、私がそのうちで最も好みで最も読んでいるのは「スモーキング・エリア#3 僕でなくもない」であり、五、六回は読んでいる。

ところで、これはここでのお戯れには関係がないというか、関係があるとするならおそらくすべてのお戯れに関係があるのだが、好きであることと頻繁であることは識別可能なのだろうか。(最近私はやたらと「区別」と書けばいいところを「識別」と書いているが、これらの違いを「区別」そして「識別」してみたい。今回は置いておこう。私は欲望をこういう感じで「置いておこう」と言って置きまくっている。そしてほとんどの欲望は置いていかれて、さらには忘れられている。これはおそらく福尾と私の違いなのだと思う。私はBで言われているような「僕でなくもない彼ら」を覚えているなら覚えているし覚えていないなら覚えていないという、極めて酷薄な事実のもとで考えている。そしてたまに、ごくたまに過去の私のものを読んで、「ああ、こんなことを書いていたのか。」と驚いて、その事実の裏側にびっしりと存在する(ように思える)、葉の裏にいる黒くて小さくて潰したらじゅわりとしそうな何かに僕は「ひえ、」と思う。福尾はそんな感じではなく、「彼らを裏切っているんじゃないかという不安にずっとどこかでつきまとわれてもいるし、ずっと彼らがいるところにいる気もする」らしい。私には正直この感覚は全然わからない。まあでも、まったくわからないわけでもない。僕も「未来の自分の首を絞めている」と思うことがあるし、「絞めている」を緩めるために同一性の曖昧さみたいなものをそれとして求めることがあるからだ。しかし、第一感でわかる感じではない。呂布カルマが「俺の後ろにセルフボースト ゴーストみたいに付き纏う 俺の吐いた言葉と 踏んだライムと 飛ばした首が俺を見張ってる」(MOL53とのFSLでのMCバトル)と言っていたことを思い出した。し、「なるほど福尾は呂布カルマ的なことを言っていたのか。」と思ったけれど、改めてちゃんと見てみると結構違った。僕のなんとなくの直感としては「私-呂布カルマ-福尾」と「惑星直列のように連なって」(139頁)いるような気がするんだけれど、まあこれは適当。

()のなかに長居してしまった。一旦括弧を閉じよう。)

うーん、それは結構難しい問いだ。「好きであることと頻繁であることは識別可能なの」かという問いは。あまり心理学については詳しくないし詳しくなるつもりもないのだが、「単純接触効果」というものがあるらしく、あれはこの問いに「限定的には可能である」と答えたり「不可能である」と答えたりするものなのかもしれない。「単純接触効果」の「単純」はなんだか嫌味な感じがして、それは好きかもしれない。

まわり道をした。し、そろそろ夜ご飯を作らなくてはならない。私は主夫なのだ。だから今日はこれで終わりにしてもいい。結局したかったことはほとんどしていないが、残されているのは「共通点を見つけてみる」みたいなお戯れだけだとも言える。

が、そんなことを無理やりするとお戯れ感が薄れるので今回はこれくらいにしておこう。ちなみに私が『ひとごと』のなかで一番好きなのはGの文章である。もう一度引用してこの文章を終えよう。

見ることと書くことのあいだにある回路は、この事実と比喩が識別不可能になる点をめぐっているように思える(『シネマ』にはこれに近いことを指す「結晶イメージ」という概念が出てくる)。見たものを書いているのか、頭のなかに書いてしまったものを見ているのか。それらは前後し、すれ違い、反転する。これはたんに見まちがいを擁護するということではない。「見て、書く」ことの読点に、哲学さえもそこに含まれるフィクションとしての創造の原器を、僕は見ている。

『ひとごと──クリティカル・エッセイズ』147頁

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