2-1-6 知るということ
前回は特に自分から自分への独白のようになってしまいましたね。
すみません。
けれど、その独白で述べたような自分への不可能性というのは明らかに光を増していきます。
光に浸されていく現代の中で人の心の中の光も増していくのです。
その光の明るさに慣れてしまった人間はどこか寂しそうに嬉しいと叫んでいます。
僕はそのような嘘をつくことができません。
僕はそのような嘘をつく人になりたくありません。
また、独白になってしまいました。
今回は独白について考えてみることにしましょう。
独白というのは書いてはいても自分から自分への言い訳のように聞こえてしまいます。
なぜ、言い訳のようなのでしょうか。
それは、自分が考えながらも実行できないことを言葉によってのみ成功させようとして言葉を壊していっているからです。
そのような独白が美しく感じられてしまうのはどうしてなのでしょう。
自分だけの言葉がなぜ人を感動させることがあるのでしょうか。
その答えは二つあると思います。
言葉が誰にでも通じるから。
言葉が誰にも通じないことを知っているから。
この二つでしょう。
僕は言葉を使って感情をあらわにします。その感情がなんの影響もないノイズとなることはあり得ません。言葉は常に世界に対する宣言なのですから。
自分だけの言葉もまたある集団においては通じる言葉です。だからこそ通じるのです。その言葉が人を感動させるということは人はあまり異なることで人は悩まないということにもなるかもしれません。
それをどう受け止めるかは人それぞれでしょう。
しかし、その受け止める知性の柔らかさや信仰の深さが言葉に対する真摯さに比例することは覚えておかなくてはなりません。
その言葉の触発性を自分に与するように用いるものと自分が与するように用いるものでは世界の広がりや深さが、思想の美しさや力強さがあまりに異なります。
しかし、人はまた自分の言葉が通じないことを嫌というほど教えられます。その教えが人を感動させることがあるのです。
なぜ、そのようなことが起こるのでしょう。
それは、通じないというのが別の通じ方をするということの言い換えにほかならないからです。
どんな言葉も豊かな可能性に開かれています。その言葉の価値を決めるのは書いた人ではなく読んだ人です。言葉が通じないことを知っている人はその豊かな可能性を誤読ではありながらも豊かであると考えることができます。
そのような誤読への信頼感が言葉が通じないと知っている人には生まれているのです。
自分についての話をしているのに、なんの話をしているのだ。
と叱責されそうですが、この言葉の可能性というのは明らかに自分の可能性と重なるところがあります。
とくに集積としての自分の豊かさというのは人に自分という言葉が届き、それがいわば勝手に展開していくその様を自分が知ることでしか知ることができないのです。
自分から自分への自分像もまた、そのような展開の一つとして、自らが最も豊かであるような仕方を示すというような意味で自分という言葉を展開していると言えるかもしれません。
測りきれない自分はそのような記述の、言葉の並びの無意識な文体にこそ現れてくるのではないでしょうか。
急いでまとめてしまいましたが、まだ僕は語り損ねていることがたくさんあるので、続けさせてもらいます。
そもそも、僕がよく言っている文体とはなんなのでしょうか。