「前文に続くようにする」≒「書く」

なんか、なんにも考えられる気がしないが、書くということはもっと気楽になされるべきなのでとりあえず書き始めた。

「書く」というのは基本的に「前文に続くようにする」ことの連続である。もちろん、「計画的に書く」場合は別途「計画」というものが必要になるが、そういう特別な場合以外は基本的に「前文に続くようにする」というのが「書く」ことの本質である。

ただ、ただ単に「前文に続くようにする」だけなら「画像を貼る」とか「絵を描く」とかでもいい。まあ、「前文」と言っているからには「書く」のが普通だろうけれど。

まあ、一つ前の文章は注釈でいい。重要なのは「続く」ということである。(「する」ということではなく。)「続く」とはどういうことだろうか。それは簡単に言えば、「接合する」ということである。しかし、完全に「接合する」というのは「前文」をまったくそのまま繰り返すことであろうから少しずつ、しかし確実に進んでいかなくてはならない。この「少しずつ、しかし確実に」ということのために論理も筋道もストーリーも物語も存在する。

このことを裏側から考えるとすれば、「接合する」とともに「分離する」が必要になるということである。

(いま、はたりとして調べたのだが、「分離」の対義語は「接合」ではないらしい。例えば、「合併」「結合」「統合」などが挙げられるらしい。ただ、私はそれを見た上で思った。「接合」は「接/合」であり、「接」は「接している」という状態、「合」は「合わせる」という行動(もしくは行為)であるのと対応して、「分離」は「分/離」であり、「分」は「分かれている」という状態、「離」は「離す」という行動(もしくは行為)であると考えられるので私の直感は意外と役に立つのかもしれない。)

さて、明確な注釈を書いたが、話を続けよう。ここまで(と言っても注釈が挟まってしまっているが。注釈の挟まり性については考えるべきところがある。)裏側から見れば、「分離する」は極めて少なくても必要であるということを確認した。「書く」ということには。この「分離する」の形態に伴って詩・小説・批評・哲学も配置されうるかもしれない。例えば「詩」は「分離する」度合いが極めて高く、私たちが補う範囲が極めて広いと思われる。それに対して「哲学」も「分離する」度合いが極めて高いが、私たちが補う範囲は極めて狭いと思われる。他の分野は正直あまり知らないのでわからないが、こういうふうに裏側から考えることもできる。

ところで、私はもはや「書く」ではなく「注釈する」ことについて考えたくなっている。「注釈する」はここまでの流れで言うと「私たちが補う」の助太刀をしてくれるような存在であると思われる。しかし、ここでおそらく、そもそも筆者が読者にどれくらい寄り添っているかが関わってくる。正直なことを言うと、私はあまり読者に寄り添っていない、というか、読者をかなり絞って寄り添っている。それは未来の私という読者であり、寄り添う目的は「触発する」ためである。もう少し広げるなら「賦活する」ためである。それゆえにここまでの「注釈する」はすべて「未来の私を触発する(もしくは賦活する)」ために行われているのである。

私と私のあいだにどのように、皆さんが挟まるか、私は知らない。ただ、私もずっと同じことを考えているわけではないので忘れてしまう。だから、論理が飛びすぎているところはそこまでないと思う。さらにいえば、この文章はたまたま専門用語が飛び交っているわけではないのであからさまなショートカットをしすぎていることもないと思う。なので、この文章は意外とリーダブルかもしれない。幸運なことに。いや、疲れているのが良かったのかもしれない。いつものように。

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