正木ゆう子から鑑賞を学ぶ13

少し間があきましたが、「正木ゆう子から鑑賞を学ぶ」の、えーっと、第十三回をしましょう。ただ、今回はいつものように句の引用、私の感想、正木の鑑賞、感想の変容という形ではなく、今回の頁(このシリーズは『現代秀句 新・増補版』(一頁に一つの句の鑑賞が載っている)を一頁ごとに読む形で進んでいます)がどうにも「学ぶ」ことがしにくかった理由について考えています。いや、考える予定です。先に言っておくとすれば、私にとって学ぶとは触発されることであり、よりよい学びとは賦活についての理解を深めることであるということがわかった、ような気がします。今回の句は以下の句です。

たつた一つの朝顔にメンデリズム存す

加藤楸邨

正直なことを言うと、私はこの句に魅力を感じませんでした。また、正木の鑑賞にも魅力を感じませんでした。正木の鑑賞は大まかにいえば「定型感とは不思議なものである」(17頁)という鑑賞で、読まれている内容については「一輪の朝顔にメンデルの遺伝の法則を見てとった内容の面白さはもちろんだが」としか触れられていない。私はそれに不満足というか、不満足ですらなく、何も思わなかった。

触発というのは何であれ何か思うということである。そして賦活というのはその何であれ何か思うことが私を生き生きさせるということである。その「賦活」は自然なものもあれば、ある程度人為的なものもあるのだが、今回はそこにすら行きつかなかったのである。そして、行きつかなかったことにある種の悲しさやある種の怒りすら湧いてこなかった。「いまはまだ出会うときではなかった」と特に何も思わずに思ったのである。

私の感想のところでもう少し踏ん張れば哲学的なこと、『理不尽な進化』などに触れて倫理的とも言えることを言うこともできると思うが、それは句の鑑賞ではない。このシリーズは正木ゆう子から鑑賞のなんたるかを学ぶというシリーズであり、そこから外れることはあるにしてもそれを忘れたことはない。いや、忘れたことはあるかもしれないが、私はおそらくそれに感心しない。今回はそんなことを思った。

句については全然触れられなかったが仕方ない。若山牧水の次の歌が聞こえてきた。「お風呂が沸きました」も聞こえてきた。

うら恋しさやかに恋とならぬまに別れて遠きさまざまの人

今回は触発されなかったからこそ触発という段階があるということがわかったことを「学び」としよう。私は貪欲だなあ。これすらできなくなったら、というかこれ以降こういうことがあるとこれすらできないだろうから、ここまで一頁も外さずに「学び」を展開してきたこのシリーズだが、これからはその限りではないことにしよう。そうしないといつまで経っても終わりそうにないからという理由ではない仕方で。

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