2-1-10 自分の表現についての矜恃
自分の表現を誇るということは自分の表現について考え、表現者としての矜持を背負っていくということではないでしょうか。
他者と比べるのではなく、他者のうちに表現を建てるのです。
僕という表現は所詮場の表現にほかなりません。
主体的な表現というのは前提であって、場的な表現がその前提からの可能性であり、記述なのです。
その転換は場を定義していくことと矛盾しません。
構造主義の誤解に「主体を追放した」というものがあると思いますが、主体を追放したのは、またもっと批判的に言うとすれば主体を追放したがっているのは読み手なのです。
主体への敬愛が構造へ向かわせていることは明らかではありませんか。
もしかすると、追放したと思われているものこそ思想家が一番愛したものが端的に現れるのかもしれません。
ニヒリストは希望を追放したのではなく、希望を愛するが故、その方向を向けていないのかもしれません。
そんな天邪鬼を知らずに、ただ「追放したのだ。」などと言うのは、辛く悲しいし、あまりに酷いことではありませんか。
すべてのひととわかりあおうということではありません。ただ、すべてのひとからすべてのひとを追放するのはもっといけないことではありませんか。
ということです。
ポスト構造主義はそのような天邪鬼な構造主義を生み出した張本人でありその天邪鬼を優しく、ときには厳しく許したのではないでしょうか。
時代を超えても残っていく表現はそのような誤解を晒されてもなお「それでもいいよ。豊かなら。」と言い放てるような人間の底に底流する矜恃の裏面なのかもしれません。
人間を失った思想は死んでいます。
思想においては人間こそが生命なのです。
それを忘れている人たちが生み出そうとしている「自分」など何の意味もありません。
僕はそう思います。
だって、生命なき思想ほど人を堕落させるものはないのですから。
かといって、自分には思想がない、と悲観する必要がないことは前半で述べている通りです。
自分の、という言葉は嘘ですから、自分など、他者のキメラに過ぎないのですから、時にはどこかの怪物が大きくなることもあるかもしれません。
そのようなことを知っていることは思想を持つということと同じです。
違うと思いますか。
それなら、僕に問うてきてください。言ってきてください。
違いますから。きっと。