他人はもう一度言ってくれる

 短くすぱりと書いてみる。だらだら書かない。そうしてみる。

 「他人はもう一度言ってくれる」というのは私がいつの日か書きつけた文である。そして私はこれにかなりの真実を見ている。その理由を考えてみよう。

 ここでの真実味はおそらく、おそらくだが「他人が存在する」ということの意味が反転することに由来する。これは私の感覚に過ぎないが、ここで「他人」は「過去の私」から「現在のあなた」になる。その変化の実感こそが真実味なのである。
 おそらく、私以外の人はむしろ、逆の反転を実感するように思われる。いや、もしかすると逆の反転も実感しないかもしれない。それはわからない。逆の反転も実感しない場合のことはとりあえず置いておこう。というか、私にはわからないので置いておくしかない。一応、ある種の推理によってそれがなぜ起こるのかを考えることはできると思うが、それは置いておこう。
 逆の反転というのは「他人が存在しない」という反転である。(ちなみに逆の反転ですらない反転は「私も他人も存在する/存在しない」のどちらかであるように思われる。ただ、これも無理やりそう考えていると言うこともできるのでよくわからない。)「他人が存在しない」というのは「他人」も結局私の中に存在するという、そういう、観念論的なイメージである。ある種、これは真実であるだろう。その真実が反転によって強調されて真実味を持つのである。
 しかし、私はむしろ、「他人が存在する」に同じようなプロセスを見る。そこでのイメージは普段実在論的な、すべてが物理現象に還元できるような、もう少し近づくとすれば、振舞いに還元できるような「他人」、言うなればゾンビのような「他人」がちゃんと私のように生きている「他人」になるようなイメージである。(実は違うと私は思っているが)同じように「他人が存在しない」は私のように生きている「他人」がゾンビのような「他人」になることである。
 「他人」は私のような存在と私のようではない存在=ゾンビをゆらゆらする。その間における二つの反転がここでの文の真実味として理解できる。私はそう思う。
 ここで書きたいのはそのようなことというよりもむしろ、この反転が、「コミュニケーション」をどのように考えるか、ということに関係するのではないか、ということである。おそらく私は「コミュニケーション」を「日記」のように見ている。その「日記」は「私の日記」であり、「過去の私」と「この私」が「コミュニケーション」をしている。そんなイメージを基礎的なものとして持っている。これとは異なる「コミュニケーション」観として「円卓」のように見ることがあるだろう。その「円卓」は別に誰のものでもない。そこには「私」もいれば「あなた」もいる。そんなイメージを基礎的なものとして持っている人もいるだろう。そして重要なことはこのどちらの「コミュニケーション」観も相手の「コミュニケーション」観を取り込めるということである。私が基礎的に持っている方は相手を「円卓」もまた「日記」の一つの比喩であると思い、「過去の私」としての誰か(この「誰か」が「過去の私」である場合も「この私」である場合もありうる。これはややこしすぎるので置いておく。)と「この私」としての誰かが「円卓」についていると思うだろう。数が増えようとそのことは変わらない。言わば「私」の「分身」として誰かたちが「円卓」にいるわけである。「私」はその誰かたちを駆け巡り、それが「円卓」になると思ってもよい。逆から見ても、「日記」は「円卓」の一つの比喩であり、その変遷における「私」が「円卓」に並ぶことになるだろう。このように考える場合、見てくれは異なるが、本質的には「私」の複数性が「日記」か「円卓」かで確保されていることは変わらないし、それはあくまで「私」の複数性であると見ることも複数であるのが「私」としてまとめられていると見ることもできるのである。

 よくわからなくなってきた。「もう一度言ってくれる」のは私のような存在としての「他人」である。しかし、それは二つのイメージを揺れている。この揺れが収まるか、それとも揺れが増幅してぐわんぐわんとなるか、どちらかはわからないが、そういうときに「他人はもう一度言ってくれる」。「もう一度」ということがよくわからない。もちろん、ここまでもとても揺れていてよくわからないのだが、それがよくわからないのかもしれない。「言われた」という記憶だけはあって、それがよくわからないものとして残っている。それは確実なのだが、そう思ってしまうとそれはもう「日記」だし「円卓」である。そうか、私は取り逃したのか。いや、テーマが多すぎるのか。複雑すぎるものをなんとなくで行っちゃえと思っているからよくないのか。
 うーん、なんとなく連動するイメージの中に一つ、反復されるフレーズのような構造があって、それがきらりと、いや、むしろ卑しく存在感を増していて、それによってやっと垣間見える真実、それが「他人はもう一度言ってくれる」である。ここでは「もう一度言ってくれる」のが真の「他人」であると言われているのかもしれない。そしてそれが「私のような存在」であるとするならば、「私」の成立には「もう一度言う」というプロセスが必要なのかもしれない。それがどの次元でどのように必要なのか、私にはそれがよくわかっていないらしい。
 これはおそらく私の弁証法のレトリックへの従属の下手くそさの現れである。他人が書いているものを整理することに長けた人というのはいるし、おそらく私もそうだと思うので推敲に任せよう。この後に「推敲後記」を書く。そこでもまとまっていないかもしれないが、少しはましになるだろう。そういう期待、一種の脅しを置いて終わろう。

推敲後記

さて、この文章を書いたのはおよそ七ヶ月前である。私はずっと推敲を怠っていたのである。なので脅しには屈するしかないのだが、書けることを書いていこう。

私はこの文章の主題は「一つにまとめる」をどのように遂行するかということであると考えた。そして、その遂行には「一つ」を主体に置くか、それとも場に置くか、その二つがあり、その二つのどちらであるかはいつまでも曖昧であることが「他人はもう一度言ってくれる」の真実味を生み出しているのだというのが論旨であると私は思う。

そして、このように考えた上で一つ疑問を呈するとすれば、「コミュニケーション」について考えるとき、二人(=1対1)と三人(=1対1対1)以上は異なるのではないか、ということがある。この文章ではこのことをまるで「日記/円卓」という対比で、そして二つを混ぜ合わせることによって解決しているかのように描いているが、これは雑なのではないだろうか。というか、問題の核心がこのことによって取り逃がされているように思われる。その問題の核心を言い切ることは難しいが、二人なら無限の責任は生じうるが、三人だとそれが「生じうる」に留まるばかりで、そしてそれゆえに「生じうる」さえも蒸発することがここでの問題の核心であると私は思う。もちろん、これはこの文章の議論を政治的に、道徳的に取り過ぎているのかもしれないが、「他人はもう一度言ってくれる」の「他人」は一人でないといけないし、その「他人」が言うのは一人の「私」であることは極めて重要なこと、そして重大な制限であると私は思う。ちなみに私はこのことを(主に)レヴィナスの(主に)正義に関する議論から学んだ。簡単に言うなら、一方を立てたらもう一方は立たないという問題であり、この問題を「私/あなた」という対比で解決できないという課題である。

これくらいで良いだろうか。ただ、この後記はむしろ補遺であったように思われる。この文章が提示しようとしている問題自体は上で指摘した「日記/円卓」という対比が誤解を招きそうだということ以外は特に問題なく伝わるように思われる。まあ、少し哲学用語が多すぎるかもしれないが。参考文献としては永井均の『哲学探究2』が挙げられるだろう。それを読めばもっと上手く問題を抉り出してくれているので、この拙い文章でも問題が気になった人は読むといいと思う。

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