2-1-15 哲学と自分、文学と自分
ある哲学者がこのようなことを言っていまして、この話の最後にふさわしいのではないか、ということで引いてみます。
「読めるわけがないんだ。他人が書いたものなんて読めるわけがない。読めちゃったら気が狂ってしまうよ。」
僕はこの言葉を読んで、ああなんて真剣な哲学者なんだろう。と尊敬すると同時に、何を大層なことを言っているんだ?とも思いました。
哲学者の言葉って、少し大袈裟な時があるんですよね。
たしかに、気を引こうとしている、というのも少しはあると思います。
けれど、僕はそれが、哲学者の言葉、今までは洒落ているとしか思っていなかった言葉が、自分の中に自分よりもありありと存在しているのに気付いてしまったんですよね。
僕の「自分」の探究というのは、その驚きから始まりました。
そこからは、あれよあれよと勝手にその感動が自己展開していくその姿をただ書き記すということで、「自分」という存在を理解することになりました。
そしてある日、僕はある矛盾、あるアポリアに遭遇しました。
「狂わずに読めるのは自らが書いた文だけだ。けれど、その文は他人が書かせている。」
という矛盾、アポリアです。
僕はまだこのことに明確な答えを浮かびそうな予感さえしていません。
それから、僕はなんだか読むのも書くのも怖くなって、読むのも書くのもやめて、ただ話すようになりました。
読むのも書くのもやめるというのは、言葉を意味としてのみ捉えるということです。価値を捨て、意図的に価値を捨て、捉えるということです。
それがこれまで本を読むこと、文章を書くことに力をとめどなく継ぎ足していった僕には苦痛で仕方ありませんでした。
けれどある日、僕は気がつきました。
意味だと思っていたものが勝手に価値になってしまっている。僕の価値になってしまっている。と。
それからなぜか、読むのも書くのもある種諦めのような感情とともに再開することができました。
その諦めの正体がなんであるか、僕は知りません。
昔の僕の文章を読むと、どこか豊かに感じられ、どこか貧しく感じられ、ああ、豊かだなあ、なんて思いながら、他者の文章も読めるようになりました。
そのとき、個性という概念が僕の中で転回しました。カント的な転回です。
個性は現れてしまうものなのだ。
と。
それを僕がどう考えているかはこの一連の話で主張したつもりです。
個性は現れてしまう時に豊かさをその個性に知らしめてくれる。
僕はそんな確信に満ちました。
そう、皆さんにこの一連の話を話すということは、意味が勝手に価値へと展開していくあの危なさと美しさを皆さんに意識してもらいたかったのです。
自分が他者のうちに存在する。
というのも、その展開の一つです。
他者にあっても、僕は自分を発見してしまうのです。
そのどこまでも自分を発見してしまう自分を好いても嫌ってもいいと思いますが、僕はあまり好きではありません。
それは語りたくない過去の出来事からそうなっているのみですが、僕はそう思っています。そしてこれからもそう思い続けるでしょう。
僕の場合はその過去を選択しているわけですが、皆さんの中にはそのような選択さえ許されないトラウマを持つ人もいると思います。
だから、僕のこの一連の話はそういう人に捧げているものです。自分にとって新しい考えはひとつもありません。これまでの思考を改めて自分という軸に並べたのみです。
人は皆、自分という個性を扱いきれません。
だから、自分という個性の現れを豊かだと思えるような余裕を持たなければならない。
僕はそう思って、この話を書きました。
それがどれだけ人に届き、どれだけ人の苦しみや悲しみを共有できたか、その苦しみや悲しみに共鳴し、ともに生きていけるような、あのすぐれた哲学や文学が持つような、優しく深い思想のような、あの豊かさを提供できたか、それは僕には永遠にわからないブラックボックスです。
けれど、この一連の話における「僕」は明らかに豊かでした。
自ら思索し、自ら記述した、「自分」という道筋に間違いはただの一つもありません。
ああ、よかった。
ただそう思うだけです。
最後はドゥルーズのある言葉を引いて終わりましょう。
哲学とは、書くこととは、「女性になること」の営みなのです。
僕のこの文章が皆さんの豊かさの母胎となれたなら、ああ哲学としての自分は間違いでなかったんだ、と思えると思います。
では、また。
創造の連関のうちで出会いましょう。