私の考えているテーゼ
私の研究について考えてみよう。私は何度も言っているが「偶然性の自覚が深まれば深まるほど、倫理的に振る舞うことが可能になる」ということの教育的な意味と意義について考えることをとりあえずの研究の指針にしている。そのことを念頭に置いてこの文章を読んでほしい。
と、言ってもこの指針がよくわからないと思うのでそのことについて話しつつ、私の研究のうちに分け入っていくことにしたい。
まず、キーになる概念として「偶然性の自覚」というものがある。正直この概念はまだ成熟していないので定義めいたものを明示することはできない。イメージとして語るとすれば、「自己」というものを相対化することによって先鋭化させることができるということを知っていることを「偶然性の自覚」ととりあえずは考えている。「この自己」は偶然生じ、そこから必然を見出していくにしても、その根底には偶然が渦巻いていて、その力によってこそ必然がそれとして存在するということを知っているということ。それこそが「偶然性の自覚」である。しかし、これはある決定的な時間ではない。つまり、「ここまでは自覚していなかった」ということと「ここからは自覚していた」ということは存在しない。そのことを表現するのが「深まれば深まるほど」という言葉である。このある種の段階性を持つ言葉は「永遠に自覚していく」というイメージを与えるかもしれない。つまり、到達しないがその道程が価値がある、と私が考えているかのようなイメージを与えるかもしれない。しかし、ここに含意されているのはもっと"傲慢"な態度である。「深まれば深まるほど」というのは「自覚が深まる」のではなく「自覚するということに深まる」ということである。つまり、「自覚」は継続しておらず断続的なものであり、その断続を「記憶」という作用によってどんどんと力強くしていくことがここには込められている。つまり、上のように考えることを、つまり「この自己」の偶然性を前提とすることを「習慣」とすることが「深まれば深まるほど」であると言える。そしてその具体的な様態として「思い出す」ということが存在し、それが「記憶」として存在することそのことが「自覚」の継続なのである。
さて、前半の解説だけでこんなに時間を取ってしまったが、後半はもっとよくわからないかもしれない。なにせ「倫理的に振る舞う」というのは少しズレた表現であるように思われるからである。私はこの違和感をこの「倫理的に振る舞う」に対比することを「道徳的に行為する」というこれもまた私にとってはズレた表現に見出す。私がこれらの表現をズレていると評価するのは「倫理」が「個々人の自己に対する『よく生きる』」であり「道徳」が「万人の万人に対する『よく生きる』」であると考えているからである。そして「振る舞う」はコンテクストに身を捩ることであると考えられ、「行為する」はコンテクストに関わらずに直立することであると考えられるので、二つの表現はズレているのである。それらは例えば「倫理的に行為する」であればあまりズレていないように見えるし「道徳的に振る舞う」であればあまりズレていないように見える。だか、私はこれらの方が違和感があるのである。「よく生きる」というのは「倫理的に振る舞う」ということであり「道徳的に行為する」ということではない。これは私の確信でしかないのだが、これは譲れないのである。
さて、前提としているテーゼを駆け足で説明したが、ここから私が最近気になっているテーマについて考えてみたい。
私が最近気になっているテーマは簡単に言えば「偶然性」「時間」「ニヒリズム」「メシア」である。特に気になっているのは「偶然性に伴う時間が仮に現在性だとするとそこにニヒリズムが出来すると考えられるのはどういうことなのか」ということである。
これは本当に気になっているだけなので答えが出るわけではない。「偶然性」が「現在性」に深く関わるということでさえ確実ではない。九鬼周造はそのように言うが、それが唯一正しいわけではない。九鬼周造は「過去性」に関しては「必然性」を当て、「未来性」に関しては「可能性」を当てながら、「現在性」にある「偶然性」の出来を歓待するような振る舞いを探究しているようにも見える。まあ、これも勘である。
そして、「メシア」というのは主にデリダが「メシアニズム」と「メシア的なもの」をかなり異なるものとして見ていたことに触発されたものであり、上のような疑問、つまり「偶然性に伴う時間が仮に現在性だとするとそこにニヒリズムが出来すると考えられるのはどういうことなのか」ということを考えるときに「時間」の問題として「メシアニズム」と「メシア的なもの」がいかにも優れた補助線になりそうな気がするので、またそのことによって「偶然性」においても深く関わることでありそうな気がするので書いておいた。
さて、つまらない話かもしれないが、駆け足に説明したのち、ご飯の時間がきたのでとりあえず置いておいたらやる気がなくなってきて、いやでも、やる気はやり始めたら出る、と誰かが言っていたような気がするのでしてみたのだが、単純に眠いらしい。
ここからは普段日記に書いているみたいにアフォリズムですらない短い文章の連関をここに置いておこうと思う。そういう方が私は得意なのである。いつでも。
私は予言される。あなたはこうなるのだ。と。私かあなたか、いやあなたたちか、予言される。予言されると私は存在し始める。そういう構造があることは間違いないが、それを悪用することは許されない。
ニヒリズムというものを感じたことがない。人生に意味はない、その通りである。お前がやっていることには何の意味もない、その通りである。だからなんだと言うのだ。そりゃあ一般的に言えば意味があるというのは意味がないということである。
思い出せそうなときに思い出せること。これはすごい力である。「あれじゃんあれ。」的なことではない。
メシアを待ち望むとメシアは存在する。私はその「待ち望む」だけを身につけたい。メシアはその度ごとに存在すればいい。思い出せばいい。
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