文学性と神話に関する考察

よい文学作品はつねに面白さをもっているが、しかもその面白さは作者が外から付加し、塗りつけたものではなく、作品そのもののうちにある面白さが、あたかも健康色のようにおのずと外にあらわれたものでなければならぬ。

この長めの引用は、桑原武夫著の『文学入門』からであるが、文学性というものを考える上で外すことのできない記述であろう。
「作品そのもののうちにある面白さが、あたかも健康色のようにおのずと外にあらわれる。」という発想には文学の持つ変革性とその普遍性が溢れている。
しかし、この記述に同じように合致する発想がある。それは自然のうちにアレゴリーを見た神話的発想である。
ホメロスを敬愛していた作家はたくさんいるし、哲学に反旗を翻したニーチェも古典文献学から発した異才だと思えば、神話的な発想力というのは文学的な発想力と似ているものであることがわかる。
フェルナンド・ソシュールはその言語学的試みにおいて、十一の二項対立で全ての言葉が説明されると考え、その考えをそれぞれ異なった仕方で継承したロランバルトやデリダなどはその適用と適用範囲についての考察を深めた。
文学的に素地のある人はわかるかもしれないが、僕には文学性と神話の関わりがいまいち見えていない。
確かに、それらに特徴的な働きとして、現実の変革を暗喩的に求めているということがあるとは思うが、いかんせんその暗喩の暗さが異なりすぎる気がするのである。
けれども、さまざまな歴史は文学性を神話から始まったものだとしているし、多くの文献学的権威はそれを支持している。
これらの人々が支持しているのは文学性の起源が神話にあることだけであって、文学が神話に準拠していることだとか、文学は神話に作られただとか言うことを支持しているわけではないと僕は思っている。
それがなんだかわからぬうちに、たくましい類推機能によってそれらが一般的な文型、つまり文学は神話から始まったとか文学は神話により生まれた。とかいう結論に曲げられているようにしか思えないのだ。
文学と神話は繋がり、それらの性質も繋がり、もはやそれらの違いは歴史のうちにしか見出せなくなってしまっているのである。
僕はこれらの関係性を全て否定するわけではないが、文学性(文学ではなく文学性)と神話の底に流れている考え、その心性は非常に似ているし比較することで両者がより明確に香り立つ。
アナロジーをアレゴリーまで昇華させる過程に埋もれてしまっては進歩性の翼はもがれることになると警告しておいて損はないと思う。

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