2-1-11 豊かな自分について

皆さんはいつ自分が豊かだと思いますか?
僕は豊かである可能性を感じたときです。
皆さんの答えも聞きたいのですが、今は「場」の表現なので、また参加してきてくれると嬉しいです。
僕は近頃、同胞意識というものの危なさについて考えています。
豊かな自分を感じる時、どこかに同胞意識を感じていると感じるからです。それは他者を認めないことにはならないか。表現とは、自分を知るとは、何か大きな同胞意識に与し、それ以外のものを存在しないものとして、物として考えることを促進しまいか。と考えてしまうのです。
特に、仲間が少なくなっていく時代の流れにおいて、そのような同胞意識は強くなっていくばかりでしょう。
いつの時代も自分という存在は不確かです。それを埋めるために人はたくさんのものを創造しました。それが文化であり制度であり真理であり芸術です。
しかし、今の時代、それらは分散して、安易な同胞意識にしか、集団的に共有できるような、「自分」は無くなってしまっているのではないでしょうか。
コミュニティの数だけ「自分」は安定すると思います。人はコミュニティの数だけ長生きできる、という記事を読んだことがあります。
それを豊かに解釈すると、コミュニティが広がっていくほど、人の豊かさは現れる。となるかもしれません。
けれど、そんなことはなくて、コミュニティが広がっていくほど、依存がしやすいだけなのではないでしょうか。
現代はコミュニティの数は増えていくのに依存がしやすいコミュニティは減っていくという、豊かな状態にとって、まったく危機的な状況であるように思います。
真面目な人は、そんな世界で生きられるのでしょうか。
たしかに、それに適応できなければそこまで、と言うなら、その人は適応できるでしょう。
しかし、自己を強迫してしまう人もいるかもしれません。
僕は自分という存在が自己を強迫するということを痛いほど理解できますし、それを乗り越えるためには他者に浸るという危険な行為を行うしかないことも理解できます。
なぜなら、他者のうちにしか自分は存在しないからです。
では、なぜ、自分などいるのでしょうか。
僕はそう問われると、目を覆いたくなるような悲しさを感じます。
言われぬ悲しさを感じます。
同胞意識はそのような悲しさの一つの逃げ道だったでしょう。しかし、今はもうそれしか残っていないのです。
豊かな自分はどれだけのその同胞意識に与することができるか、というゲームの理論に絡めとられてしまいそうになっているようにも思います。
ああ、自分が生きているのに死んでいる。自分が死にたがっているのに生に自分が引き留めている。
そんな矛盾が現代を包んでいるような気がします。
僕のように哲学や文学に同胞意識を感じられるような人はまだ幸せでしょう。
ああ、自分の表現が人を幸せにすることがあるのだろうか。
という恐怖や虚しさは抱えていても、それを共に行ってくれるような哲学者や文学者がいます。
それが幸せです。
だから僕は自分が哲学者や文学者に同期したがっているのを止めようと思いません。思えません。
それを止めれば、僕の存在は空虚です。
そう、空虚なのです。
しかし、同期ばかりしていては哲学や文学に閉じこもってしまいます。それではまた同胞意識の繋がりをふと失った時、僕はもう、死んでしまうのでしょう。
それを開放できるのもまた自分であり表現です。
そのような意識を持たなければ、表現ができないのです。
もちろん、いつもこんなにヒリヒリする必要はまったくありません。けれど、ヒリヒリしたことのない人の表現はどこか寂しいくらいに空虚です。
その空虚こそ思想を受け容れる器であることを信じて、他者の連関のうちに自分を発見しなくてはならないのです。
豊かな自分は空虚でありながら、他者の連関のうちに生き生きしている、あの子供の頃の遊びのような、そんな軽さと重さを持った自分のことを言うのかもしれません。
よくわからない話をごめんなさい。
けれど、ヒリヒリした人はたくさんの豊かな自分を見つけることができると思います。
僕もその一人です。

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