帯に短く襷に長い時間

読書するには短く、アルバムを聴くには長い、そんな不安定な時間がある。目の前にある。なので、というわけではないが、とても雑に話してみたいと思う。が、お腹が空いているのでグラノーラを食べよう。まず顔を洗おう。投稿するつもりで書くが、そんな代物にならない可能性がある。ただ、投稿というのは完成ではなく、読まれたら完成、というわけでもなく、完成することはない、わけでもない。

少々不純な使い方かもしれないが、『問いが世界をつくりだす』の第七章を軽く読んでみよう。昨日、『美学のプラクティス』をそうやって読んで気持ちよかったのでその残像があるのかもしれない。しかし、昨日よりも軽く読もうと思う。未読なのに軽く読む。いや、未読でなければ軽く読むことなど不可能なのかもしれない。

まだ開かない。たしか「自由」について、もしくは「行為」について、さらにはそれを支える「世界」について書かれているらしい。第六章を読んでから少し時間が経ったので忘れてしまった。手前性みたいなものについて考えたい。政治的な次元が開かれるということの政治性というか、そういうものについて考えたい。

田村(『問いが世界をつくりだす』の著者)が言う「曖昧さ」と星野(『美学のプラクティス』の著者)が言う「曖昧さ」というのはどういうふうに関わるのだろうか。私はまだ、田村の迫力というか、偶然性の炸裂というか、そういうものを見ていない。

人が持つ問題とは、そうならざるをえなかったからこそ、「そうでなくてもよかった」という偶然性の表現でもある。問題が繰り返され、何かひとつの塊に見えてくるほどにそこから、果てしない広がりとして偶然性がまばゆく炸裂する。
『センスの哲学』216頁

時間がどんどんなくなっていく。到底間に合いそうにない。軽く読んでも間に合いそうにない。まだ目の前に手をつけられていないグラノーラとコーヒーがある。『問いが世界をつくりだす』もある。とりあえず昨日の読書を提示しておこう。提示したらとりあえず朝ごはんを食べる。朝なので。白く、とても薄く黄色く、そんな朝。

いろいろなことを思ったり考えたりしたが、もうほとんど忘れてしまったので本を読もう。『問いが世界をつくりだす』を。

田村さんの踏み込みがよくわかっていないのはおそらく、アフォーダンス理論的なものとの関係性がよくわからないからである。『問いが世界をつくりだす』の副題は「メルロ=ポンティ 曖昧な世界の存在論」なのだが、おそらくこの副題が必要な理由がよくわからないのである。私は。

議論の梗概を読んで思うことは三つある。一つ目は「面白そうだ!」ということ。二つ目は「知ってるよ!」ということ。三つ目は「うーん………」ということ。今回は三つ目である。何も思わないわけではないが何か思うわけでもない。そんな感じである。無関心とも言えるかもしれないが、別にそういうわけではない。表面的すぎてよくわからない、みたいなのが近いだろうか。ただ、梗概なのだからそりゃそうなのであり、逆に一つ目と二つ目がおかしいとも言える。

意味的に分節化された領野のなかで、私が対象をそのようなもの「として」見ているということがいちいち注目されることはない。すなわち、ある「見え」に対して概念を選択し、それによって事物を解釈するという操作は、自然的な態度における知覚では行われていないのである。
『問いが世界をつくりだす』189頁

この前のところではもう少し鑑賞的な例が出されているのだが、そこで私はラーメン屋の大きな挨拶について外国人が「なんであんなに大きな声を出すのだろうか。怒っているみたいではないか。」みたいなことを言っていたらしいという誰かの投稿がやけに頭に残っていることを思い出した。ハイデガーは火星人みたいだと言われていたらしい(どういう意味で言われていたのかは知らない)が、哲学者というのはここで言われるような「自然的な態度」を取れない者なのかもしれない。ただ、そのような者でもやはり「自然的な態度における知覚」は行っている、行っているはずなのであり、そのすれ違いが哲学者とそうではない者とのあいだではあるのかもしれない。ただ、その「すれ違い」も私がしたように国の違いや慣習の違いにスライドさせることはできるのであり、哲学者はついに存在しないようになるのかもしれない。

「これ以上は扱わない」と言われるものが本文よりも面白そうであることは往々にしてある。ポジティブさ、なのだろうか。首を傾げました。

もう時間がない。この章の最後の節はおあずけだ。この章は三節構成で第一節はある程度ちゃんと、二節はある程度駆け足で読んだ。

思ったことは、簡単に言えば、私は「自由」についてあんまり興味がないということである。もちろん、大事な議論なのだろう、とは思っている。しかし、これも一種のお世辞というか、そういうところがあって、真剣に取り組まなければならない問題だとしても面白い問題であるようには思われないのである。この感覚は例えば、木島泰三『自由意志の向こう側 決定論をめぐる哲学史』を読んでいるときにも感じていた。とても粗暴な言い方をするとすれば、「自由」は後付けできるし、そもそも「自由」は本質的に「後付け」的なのではないか、それに「自由」はそのなかでも極めて「後付け」的である、みたいな直観が私にはあるのである。まあ、粗暴な感覚なのだが。

そろそろ着替えよう。推敲もしたい。いや、今回は私が第二節を読んだみたいな仕方で読んで誤字だけ直すみたいな感じにしよう。間に合わない。普通に。

普通に時間がありませんでした。このあと時間があれば読みたいと思います。

読みました。だいぶ遅くなりました。特に乱れていたところはなかったと思いますが、別に私はあなた(この文章を書いた私)に興味があるわけではない、とも思いました。にこにこ。もう少し踏み込んで書いてくれれば嬉しいな、と思いました。もちろん、時間がなかったんでしょうけれども。

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