だらだらときびきびする
眠たいので適当にゆる言語学ラジオ#388「「モテ」と「おもしろ」、どっちを優先する?」を聞いて、いこう。眠っているかもしれないし、何かメモしているかもしれない。聞く前から内容を知っているのは珍しい。私が。
一つの統一されたものとして書け。上のものも「聞いて、いこう」という不思議な句点、「私が。」という補足、「眠たいので」という始まり。これらは統一されたものではない。なんというか、それぞれそれぞれ必要性によって書かれているのはわかるけれど、それらが統一されたものに向かっているわけでも、統一されることに向かっているわけでもないように思われる。
私はラジオを聞くのが苦手である。そのことについては一度良い文章を書いたからもはや書くことはないのであるが、少し緩く、聞くことによって、よりよく聞けるようになりたい。
ちなみにその文章は以下。
読み直してはいません。
「人間を分けたい、と。」
寝転びました。「個別具体的な事象に興味がある人/個別具体的な事象から引き出された構造に興味がある人」という対比。
「個別/普遍」という対比。よくわかんない。
一般論とその補強、みたいな関係、私はよくわからない。いつも「補強」パートがよくわからない。いや、正しく言えば「一般論」のところが好き。まあ、「一般論と具体例」よりは「理論と実践」の「理論」が好きだというだけだけど。
「寄り添える/寄り添えない」を「個別具体的な事象に興味がある人=個別族/個別具体的な事象から引き出された構造に興味がある人=構造族」に重ねる。
対立にリアリティを与えられない。
「体験に意味はある/体験に意味はない」に「個別族/構造族」を重ねる。というか、「重ねる」から「族」になっている。
「構造族」って少数派なんだ。どういうふうに「構造族」を考えたら少数派になるんだろう。「構造族」は。
「システム/共感」という対比。
「俺がいることで世界が輝いています。」(水野さん)
「人間の行動の動機」は「面白いと思われたい」か「モテたい」かである。
「モテたい」=「他者の評価軸を内面化している」
「面白族/モテ族」、「モチベーションの動機」が「自分/他者」
「自分/他者」から「面白いと思われたい/モテたい」という四領域化。
「自分」から「モテたい」ということはありますよね?という感じがする。
「面白族」は「モテ族」を「おもんない」と思い、「モテ族」は「面白族」を「モテない」と思う。
「俺はモテたいだけだった」
私たちは自分の動機を取り違える。し、「取り違えた」も取り違える可能性がある。
「面白いと思われたい」の「思われたい」が「モテたい」とどう違うかはわからない。
「侮られたくない」の気持ち。
「面白よりもモテよりも儲かりたいです!」(堀元さん)
「自分にとって面白い/他人(≒世間)にとって面白い」(水野さん)
「誰も言ってないことを言おう」(堀元さん)
「堀本さんは原体験が面白族なのよ。」(水野さん)
「いい具体例」とはなんなのか。
「逆張り」は「逆」を知っているというダサさがある。
「先にパンチライン言ってジングル入る」という手法。
たぶん快楽が享楽とモテによって二重化する話だろうね。この話。
「面白マッチョイズム」(水野さん)
マッチョさと救われ。
「他者理解に繋がる部分はある」(水野さん)
「人間類型/人間特性」
「承認欲求というのは存在しない」という記事を読む。(以下、特に断りのない限り、引用はその記事から。)
「この「承認欲求」という概念が本当に存在するのかと問われると、意外にも答えは複雑です。」
別に重箱の隅をつつきたいわけではないが、「概念が存在する」というのはどういうことなのだろうか。
「実は、仲間に殺されるリスクを回避するために、私たちの脳は噂話や他者評価に過剰に敏感になり、それが現代のSNS環境と結びついて“承認欲求”や“異常な攻撃性”として表出しているのです。」
「承認欲求」と「異常な攻撃性」のカップリングは面白そう。ただ、習慣を本能と環境に分離させ、さらには統治しようとする、特に新しくもない手法を使っているようにも見える。ちなみに私は全体を読んでから感想を書くことはほとんどないし、ここでもそうしていない。なぜかって?これが一番気持ちいいから。
「生物は、自分を多く殺すものから逃れるように形質を変化させ、生存率を高める傾向があるのです。」
「自分を多く殺す」が成り立つ次元が成り立っていることを前提にされてもなあ、と思う。私は一回しか死なない。そして「自分」の少なくとも半面はそこで終わりである。そこからは何も語れない。
あんまり面白くない。いまのところ。ただ、結論めいたところに着いてしまった。
「SNSを「自分の小集団」と錯覚し、必死に自己アピールし(承認欲求)、同時に他者を攻撃し(殺す側に回る)報酬物質を分泌してしまう――この一連の流れが、私たちが言う「承認欲求」や「SNSの異常な攻撃性」という現象を生み出しているのです。」(元の文章は太字)
あ、話終わった。よくわからないが「今回の話を1つのSF風の物語にまとめて」くれるらしいので読みにいこう。
うーん、なんというか、面白くも面白くなくもなかった。
「本が読めない34歳がはじめて「羅生門」を読む日」という記事を読もう。
これは面白いねえ。なんというか、私は気持ち悪くなっちゃうからこの「本が読めない」の段階はスキップか、もしくは最近もほとんど読んでいないから拒否かしている。「本が読めない34歳」は本が読める人と一緒に読んでいる。助けてもらっている。「本が読めない34歳」はみくのしんさんで、読める人はかまどさんである。
みくのしんさんと私が違うのはおそらく、実際に小説みたいなものを書いたことがあるかどうか、なんだろうなあ。私は小説を読むときの過剰な、何かを恐れて小説を書き始めたところがあると思うから、たぶん、なんとかスキップできてるんだろうな。
芥川の神経質さがかまどさんに肯定されている、受容されているみくのしんさんに受容されて、肯定されて優しさみたいになってるの、いいな。
なるほど、読み上げで読んでいるのかな?たぶん。「Sentimentalisme」への反応を見ると。
文学の天才、そしておそらく早死にするだろう人だった頃を思い出す。もはやそれにはなれないが、なりたいとはあまり思わない。これは懐古主義かもしれないが、そうであるかすらいまはわからない。
みくのしん「この人、天才です」
かまど「それはそう」
いい。天才をまっすぐ天才だと思うこと、最近はやめていたなあ。なぜかはわからないけれど。
なんというか、最近は、芥川みたいな文学性、それを芥川にだけ、さらには芥川に似ていると言えそうな人にだけ感じるわけではなくて、なんというか、あらゆる文学的徴候に感じちゃうんだよねえ。涙もろくなったんだよなあ。簡単に言えば。そういう意味でやっぱり、哲学は自己防衛なんだよ。私にとっては。文学も荒療治だけれど、そういうところがあるのかもしれない。
「文学なんて読んじゃったら、ねえ」みたいに思っていた時期のことを思い出す。これはなんというか、畏れ、である。
みくのしんさんが「こんなの[=「火が頬を濡らしている」という表現:引用者]ペン先が一瞬でも曇ったら書けないだろ……」って言ってる。ここ、凄い。なんか凄い。
みくのしんさんはかまどさんが居てこの、きわきわに立つことに備えるような安心感があるんだろうけれど、誰も居ないのにこうなっちゃうのが文学の恐さであり、私はそれを畏れていたのだ。楽しそうでなんだか嬉しい。みくのしんさんが。
「その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。」ってところ、凄えな。なんとなくわかる。「憎悪」のほうはよくわからないけれど、「恐怖が少しずつ消えて行った」のところはわかる。凄い。
なんというか、羨ましくもあるな。みくのしんさんが。かまどさんに守ってもらうことでちゃんと狂いそうな次元に行けて。私は守ってもらったことがないから、狂っちゃいそう、と結構手前で思って結構手前で引き返しちゃった気がする。まあ、だからこそ生きているんだろうけど。
あれ、自分で読んでんのか。
すんごいな。私のこの、羨ましさにまで話が展開している。最後。
いい記事だったなあ。
さて、そろそろ部屋の電気をつけて、ご飯を炊いて、ご飯を作って、あなたを待とう。あなたはたぶん、守ってくれる人ではない。少なくとも文学からは。けれど何度も守ってくれたんだろうなあ。ね。