『<つながり>の現代思想』の「まえがき」を読む
明石書店のホームページで公開されている『<つながり>の現代思想』(明石書店、2018年)の「まえがき」を読んでみたいと思う。
「つながり」について言えば、私は私の内にコミュ欲(コミュニケーションの欲望とコミュニティの欲望を合わせたもの)があることを認めるようになってきた。別に前までも認めまいとしてきたわけではないが認めることにしてきているのである。その意味で言えば、前までは認めていなかったのかもしれない。まあ、そんなことはどうでもいいが、とにかくそのように自己を認識すると、そこに現れる矛盾のようなものに目を向ける必要を感じてくる。その矛盾というのは「寂しいけれども鬱陶しい」「鬱陶しいけれども寂しい」というような、適切な距離を置くということの難しさから生まれる葛藤のことである。私はそれに目を向けなくてはならないように思う。過少にも過剰にもならないために。
ちなみにこの文章は9頁の最初の段落を読んだときに書いている。「容易に予測されるように、同質性の強化は同時に、異質なものの排除を必然的に伴うものであった。過少なつながりから過剰なつながりへ、そして絆のほどきから絆の押し付けへと進むドラマは、私たちが他者および共同体との“適切な”距離を見失っていることを、もっと言えば、そのような“適切な”距離など最初からこ存在しなかったであろうことを忘却させるよう作用しているのである。」という箇所。
全部読んだ。正直に言うと惹かれなかった。私の視野の狭さのせいだろう。しかも私はその狭さを悪びれてもいないし、そうするべきだとも思っていない。ただ単に興味が湧かなかった。
私が所属している集団が何人もの大人(私が所属している集団も社会人ではあるのだが、もう少し年代が上の人たちのことをここでは「大人」と呼んでいる)から称賛されている。曰く「他の同種の集団よりも仲が良い」、曰く「暖かくて優しい」、曰く「コミュニケーションに包まれている」などなど、かなり称賛されている。それ自体を斜めに見るつもりはないのだが、私はそれらの賞賛の奥にある、もの寂しい、しかし強い、コミュ欲を感じる。そしてそれに飲まれすぎないようにしたい、そう微かに思うのである。何も変わらなくてもいいし、変わらないことを望まれてもいるだろうその集団の、しかし一つのズレでありたいと思うのである。目立ちたいだけなのかもしれないが。そしてその背後には承認欲求があるのかもしれないが。
その集団とは別の集団の、ある意味バラバラで適当な、人の話をちゃんと聞いてはいないような、そんな集団に所属することが心地よいことがある。もちろん、もの寂しさを直接感じることもあるが、それはそれでいい、というか、そういう時間があること自体が私は嬉しい。適当でありながら、しかし確実に受け止めてくれるような、そんな甘さ、甘えられるような質感がそこにはある。これはどちらの集団が良いとかではなく、ただ単にそういうふうになっていて、私は二つの集団を、さらに言えばあと四つほどの異なる集団を跨いで、駆けて、離れて近づいて、そうすることでやっと欲望を抑制(?)することができている。
ここに薄暗い欲望とその抑制というメタファーがある。それを神秘的にし過ぎないように、謎にし過ぎないように、この本、『<つながり>の現代思想』はあるのかもしれない。そうなれば俄然、面白く感じてきた。多少強引さはあるが、今回はそういうことにしよう。このようなことが実感に変わる前に読んでおくのが賢明なのかもしれない。たぶんまだ読まないが。