快楽の構造化
「もしかすると、「わかる」というのは「表現を得た」ということであって「わかる」以前の「わかるかもしれない」が多ければ多いほどその快感は繰り返されるのかもしれない。そして知とは「わかるかもしれない」を構造的に知ることかもしれない。」
(2021/3/31「天弦」より)
快楽は構造化されると快楽でなくなる。
私はそのことが嫌でたまらない。
私は「快楽主義者」なのである。
『快楽主義者』という作品を書くと言ってからはや二ヶ月くらいは経っているような気がするが、いまだに書き始めていない。
私は怠慢なのである。
しかし私は「快楽の構造化」ということに興味が出てきてその仕事にも取り組もうと思い始めている。
「仕事」というとよくわからない響きのように聞こえるが、それは「労働」ではないから「仕事」なのである。
しかし、「快楽を構造化する」というのはどのような行為なのだろうか。
私はその探究として『乱置』を考えていると言っても過言ではない。
だからもしかすると『快楽主義者』というのは『乱置』の付録になるか、それに吸収されてしまうかもしれない。
そんなことはどちらでも良いのだが、私の考えていることは「快楽」をどのように「たくさん手に入れる」か、ということである。
「快楽を構造化する」というのは「幸福を構造化する」ということとは本質的に違う。
なぜなら、快楽は突然訪れるが幸福は突然失われるからである。その見てしまう瞬間の違いによってそれらは分かれている。
そして、快楽はたいてい「良くないもの」として扱われる。
もし私がどこかで「快楽に生きる」ということを言えば批判されることは免れないだろう。
私は「快楽を構造化する」ことによって快楽に正統性があることを示そうとしているのである。
そもそもどうして「快楽は良くない」のだろうか。
私はその理由をたくさん考えているのだが、何一つとして重要であると思われるようなことが考えつかない。
だから私は昔「不倫のどこがいけないのか。」と多くの人が興味のありそうなことに取り組もうとしたのだが、どうしてもそれに答えが出せず「不倫はいけないものとすることはどうして良いことなのか。」まで問いを引き上げてしまった。
私は真理の泉の奥深くまで「快楽」が落ちてゆくのを見つめていられなかったのである。
しかし、幸い私には時間がある。そして落ちていった「快楽」を拾えるくらいの装置がある。
だから私は「快楽」の真理を探しにゆく前に待っているのである。
私の疑問は単純なものだ。
「快楽はどうして良くないとされるのか。」
これだけである。
そして私は一つの転機を得た。
これまでごく稀に感じていた「苛立ち」のようなものを観察することができるようになってきたのである。
つまり、「苛立ち」をどこか可笑しみのある現象として科学者のように見ることができるようになってきたのである。
私はそのとき「快楽」の道が開いたと思った。
なぜなら、「苛立ち」とは「快楽」が担っている「悪」を持つものだと思ったからである。
つまり、「苛立ち」には「快楽」が批判されるような「悪」が存在するということである。
その「悪」とは「私たちの規範の無根拠性について考えなくてはならなくなる」ということである。
「苛立ち」とは規範の無根拠性に対する批判へのエネルギーなのである。
これは決して偏った見方ではなくて、私たちの経験から導かれることだろう。
たとえば、「なんだこれ。」と思いながら読書をやめるとき、体に満ち満ちた批判精神が生まれ、「何かを批判してやろう」という突飛な欲望が生まれることになることがあるだろう。
私たちはその時普段から感じている「規範の無根拠性」について考えるだろう。
たとえば「どうして哲学を学ばねばならないのだ!」とか、これは冗談だが、普段は「こんなこと問いただすと良くないよな。」と制しているものを「よおし、批判してやるぞ。」と思うだろう。
それが「快楽」の担っている「悪」なのである。
そしてそれは本来「苛立ち」が担うものをその感情が「倫理的に」よくないからといって「快楽」が担わされているのである。
このようなことは突飛なことだろうか。
いや、こんなことはたくさんある。「担わされている」ことなんて無数にある。
私たちの生も考えてみれば担わされているものかもしれない。
「快楽の構造化」というのはその誤解を颯爽と引き離し「快楽」ということを取り戻すためのものなのである。
では具体的に何をするのか、と言えば、お笑いにおける大喜利のようなことをするのである。
自分に大喜利のお題を出すことができるようになる、というのが「快楽の構造化」には重要なことなのである。
なぜなら、その瞬間的な「笑い」のような力は「正義/悪」のような植え付けられてしまったしょうもないことを飛び越えて、「倫理」ということにたどり着くからである。
「倫理」というのは「快楽」を押さえ付けるものではなくて「快楽」を正しく行えたときに到達するものなのである。
そして始めの問いに戻るとすれば「快楽は構造化されると快楽でなくなる」のは「ずっと同じお題で大喜利している」からなのである。
だからそれを構造化するときにもう一つ大きな視点、「大喜利のお題を考える」というところに身を置くとその「快楽は構造化されると快楽でなくなる」ということを笑って過ごせるようになるのである。
この「大喜利のお題を考える」という言い方が嫌なら「面白い問いを考える」ということに変えてもいいし、「どうしても考えてしまう問いを答えやすい形に変える」ということに変えてもいい。
とにかく「問いを作る」ということを「答えを出す」ということよりも考えられるようになった時に「快楽は構造化される」、それも「快楽」の形でなされるようになるのである。
では、人を巻き込む「快楽」についてどう考えれば良いか、というのが今私が考えていること、私に出された大きな問い、つまり「問いを作ることができない」という問いなのである。
この緩やかでおおらかな問いの形を知ることによってこの困惑や「苛立ち」のようなものの価値について考えることができるようになるのである。
私はよく「知はマッチポンプだ」とか「知は被害妄想の自己解決だ」とかいうことを思う。
というのも、大抵の「考える人」たちの考えていることは意味がわからないからである。
違う言い方をすれば「どうしてその問いについて考える必要があるの」と思いながらも私は「なるほど、面白い。」と思いつつ本を読んでいる。
私は最近、「このよくわからない人たちは私たちにわからない形で自らに問いを作っているんだ。」と思いながら本を読んでいる。話を聞いている。
すると、「正統」ということがその「問いを作る人」にしかないことがわかってくる。どれだけ陳腐な問いでも凄い問いになる力があることに気がついてしまったのである。
その時、私はとてつもなく「快楽」に可能性を感じたのである。
だって、「どんなものでも快楽にすることができる」と思ったからである。それは身体の征服ではない。ただ単に私は「人間の快楽って奥深いなあ」と普通考えられている「快楽」に違う形で「問いを作れる」という自己肯定感を信じられるようになったのである。
その端的な表れが今回の文章なのである。
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