『愛について─アイデンティティと欲望の政治学』を読む(たまに煙草も吸う)

煙草の吸える喫茶店で新しい本を読む。その本というのは竹村和子『愛について─アイデンティティと欲望の政治学』(岩波現代文庫)である。

と、書きながらその喫茶店に入ろうとしていたのだが、もう全席禁煙になったらしい。「煙草の吸える喫茶店で新しい本を読む」ために一旦Amazonで購入した本をキャンセルしたのだが、残念だ。まあ、近くのショッピングモールのコーヒーショップに入って、煙草が吸いたくなったら喫煙ルームに行こう。仕方ない。

とりあえず「序」と「解説」を読むことにする。今日は年末だ。

今日はズボンが緩くて、とてもルーズに着てしまう。ショッピングモールに来た。とりあえず喫煙ルームに行こう。

とりあえずレシートとクーポンと帯を捨てる。ポイ。

今日はいつもより人が多い。いつもより賑やかなのだろうか。私はいつもイヤホンをしているからわからない。

今日、私は久しぶりに煙草を吸っている。その理由は簡単で、いまは実家に帰っているからである。いつもは同居人が嫌がるので吸っていない。

さっきも一回吸ったが、特に何も思わなかった。喫煙ルームがたくさんなので近くの椅子で読み始める。

今日はとりあえずスキャンしないことにしよう。よっほどのことがない限り。

とりあえずイヤホンはしないことにした。

「解説」から読むことにした。「解説」を先に読むことを嫌がる人もいるかもしれないが、私はむしろ先に読むほうが好みである。一つの支えと一つの相手ができるのだから。対話、もしくは思考、想像の。

ちなみに私は『フェミニズム』(岩波現代文庫)だけ読んだことがあります。竹村については。

うーん、理解は対比と対比を対比すること、すなわち類比によって成り立つのだが、類比もまた対比であるのであり、対比もまた(潜在的にではあれ)類比であるから理解はそれとして成り立つこともまた事実である。みたいなことをうまく活用しているんだろうなあ、みたいなことを思った。極めて抽象的だが。というかそもそも、このような図式で整理できない言説は存在しない。それは私が言説をそのように定義、というほど堅苦しくはなくても、ぼんやり思い浮かべているからである。だから、私にとって言説とは対比と類比の関係をいかに効果的に示すのかということを実践的な課題とするのであり、竹村はおそらくその優れた解決者なのである。「解説」の途中、391-417頁のうちの401頁までを読んでいてそう思った。

竹村が哲学(研究)者ではなく文学(研究)者であることは僥倖だったのだな、と思う。「解説」、特に404頁から405頁にまたがる箇所を読んで。

大事なので引用しておきましょう。

我々が、わざわざ小説という虚構から世界を知ることを目指すのは、そのプロットではなく、そこに回収されない細部をこそ、物語だけが平面的に記し得るものであるからであり、またその個別具体的な細部が帯びる潜在的な記号作用が、いつ概念に吸収され、変形させられ、分断され、そしてレトリックの効果によって、強調されたり軽(/)んじられたりしていくのか、そのプロセスの全容を目撃できるからだったのではないでしょうか。竹村さんは、自身が分け入る全ジャンルのテクストを、やはりその──仮にたとえるなら「小説」の──ように読むことで、「語りえぬもの」というフレーズを、生殖の物語が包摂しきれない関係で充塡します。

『愛について』「解説」404-405頁

「語りえぬもの」を言い当てるだけではなく、それを言い立てる。「当てる」ではなく「立てる」、この迫力が竹村の魅力なのでしょう。おそらく。そのためにはおそらく極めて形式的な才能も必要でしょうし、極めて政治的な才能も必要でしょう。文学と政治の近さを感じました。引用してみて。

私は忘れてしまった私たちに見張られているのだ。そんな奇妙な感覚、そしてそのリアリティと倫理を私は持っている。ことにしている。ときがある。竹村もたぶん、仕方は違うがそのリアリティと倫理を持っているのだと思う。ただ、竹村の議論は私よりも具体的であり、それゆえに触発的でもあるだろうと思う。私は別に真似したいとは思わないが、私の議論もいくらが具体的にしたいとは思う。現在411頁。

政治的な次元というのは極めて抽象的に言えば、類比をそれとして固定する一つの次元であり、そこで固定されているのは対比と対比は順対応と逆対応を反転させられる、という信念のうえにあるように思われる。それはそれで間違いないのだが、対比はどこまでも類比になるし類比はどこまでも対比になるから、私はそのことを強調するから少しだけズレているのである。竹村と。

まあ、私もまだよくわかっていません(し、わからないかもしれません)が、そのことについて示唆的な箇所を引用しておきましょう。

ある社会体制下で進行する特定者の排除や抑圧のもつ意味を、人間の内面構造で展開される出来事をもって考究してきた彼女[=竹村和子:引用者、以下同様]ですから、アイデンティティと差異なるものを、社会、もしくは公共的なアリーナに生起する政治問題とは区切らずに議論する枠組みを、構築しようと奮闘していた形跡が見受けられます。第四章冒頭の、にわかに意味を汲み難い、聞き手と語り手の関係性を、「名づけ」と主体をめぐる観想へつなげていく、やや迂遠な数パッセージが、それを説明するでしょう。が、決して忘れてならないのは、彼女が見つめていた差異や他者は、まず我々自身がその限りであるに相違ない、主体化した言語的存在が、例外なく個々のうちに、主体として生き延びるために殺害した残骸として囲うものだということです。そのことを、著者が置いた「定理」として受け取る時、我々はもはやアイデンティティなるものに依存して、自我の確かさを夢想することはできないのです。

『愛について』「解説」411頁

ここ(これから引用するところ)とかはまさに違うところが明確であり、それは翻って同じところが明確である箇所であるように思われる。

竹村さんが見据えているのはこの次元にほかならず、社会においては集団間の抗争の様相を呈する差異と同一性の問題も、実際は、個々の主体に構造化された内面の領域(いわゆる「心の問題」というセンチメンタルな領域ではありません)と連動していると説いています。人は内主体的と間主体的、二つの場で他者とともにある、つまり、同一性の分断を受けていると彼女はいいます(二三一頁)。前者は倫理、後者は政治として体(/)験されるといいますが、主体のドラマである限り、この二相は「連鎖」し、暴力はこの結節点に往還します。「良対象」は自我に取り込み、「悪対象」は自己"外"に放擲するというフロイトの説が、彼女の議論を支えます。レイシストは「黒さ」がなにか、セクシストは「女」がなにかを熟知したうえで虐待し、放擲のあとも「恐怖」や「悪」という記号で包んでそれを内面で憎み続ける(二六七頁)──彼女はこの構図をもって、相争う差異の問いが、ただ政治に丸投げされればよい問題ではないことを示しました。これが承認や、間主体的なアゴーンでは解決できない問題であることを、凄まじい密度の精読で論証していくテクストは、ひるがえって我々に、ニューヨークで、ミネアポリスで、ワシントンDCで、カブールで起きた近年の出来事が、決して遠隔地の政治のまずさに起因していただけでなく、我々もその一である人間主体が宿命的に分有した、暴力誘発性がどこかに構造化された事態だったということを、思い起こせと要請しているかのように感じます。

『愛について』「解説」413-414頁(「我々もその一である人間主体が宿命的に分有した」はおそらく誤字で正しくは「我々もその一員である人間主体が宿命的に分有した」だと思う。)

この箇所を新田啓子(この解説を書いた人。何の人かは知らない。)が言うように「暴力の問題を、個人的責任や内省的解決のもとに投げ出すこととは異な」(414頁)るものとして考えられるとき、上で言ったような「政治的な次元」の一つのイメージが現れるのではないかと思う。ただ、竹村の議論は「対比と対比は順対応と逆対応を反転させられる」という「信念」よりはむしろ「対比と対比は対応を響かせあうことができる」みたいな「信念」だと思う。類比への信頼みたいなものがあるのだ。私にはその感覚はあまりない。

最後が美しくかったので引用しておこう。引用したら煙草を吸いに行こう。結構疲れた。ここまで抽象的な話ばかりしていて皆さんも疲れたと思うが、こればかりは読んでからはできない、少なくともそういうところがあると思うのでご寛恕いただきたい。

途切れなく続くもの、その先で、あなたがそれを聴くことが正義だといった狂気と出会うとはいかなることか。最も聴き取られ難い狂気を判別するということは、普遍とは逆向きの、翻訳に向かうことだとあなたは告げた。すべてが途切れなく続く世界、全階(/)調の愛は突然、全階調の暴力に変わりうる。狂気とはそれを容認することにあらず、言葉でそれを翻すことなのだろう。

『愛について』「解説」416-417頁

イヤホンをせずに喫煙ルームに向かおう。と言ってもすぐそこだが。正直「序」を読む元気はなさそうである。残念ながら。もしかするとゆったりして回復するかもしれないが、それは望めそうもない。一旦外に出てから喫煙ルームに行こう。暑い。

空はうっすい雲に覆われて、なんだか軽薄で、軽薄に素晴らしかった。

雑にネットサーフィンをする。

人生相談ってなんなんだろうなあ。お題じゃない相談というのは、なんなんだろうなあ。

いろいろな人が入って、いろいろな顔で出ていく。いろいろな人がいろいろな話をいろいろな話し方で話している。私は一人。

本を読んだ直後とか、映画を観た直後とか、そういうときのほうがむしろ無心的である。

この部屋でさえ一人。このショッピングモールなら一人にすらなれない。この世界ならどうだろうか。

喫煙ルームで煙草のCMが流れ続けている。その単純さになんだか好感が持てる。

煙草を吸ったことがなかったときは「タバコは極めて儀礼的な深呼吸」みたいに思っていたのだが、たぶん違う。

一人であるときは部屋そのもので、二人以上のときは私は一人。

めちゃくちゃ長く居た。全部なくなったから出た。最後まで読んでから何か書くことを条件に読もうかしら。家に帰ろうかしら。

イヤホンをつけた。とりあえず箱を捨てる。

コーヒーショップに入った。読むことにした。だらだら、というかぼおっと、読む。疲れは一種の強調である。

読みます。

類比を透かし見ることで考えることと重ね合わせることで考えることはどう違うのだろうか。

文体というのは、特に論文的なものにおける文体というのは「問い-こたえ」の構築の仕方のことである。そして、たいていは「こたえ」が「応え」と「答え」になるだけである。ただ、しかし、そんなことでいいのだろうか。「そんなことでいいのだろうか」というのは………

あ、書かないっていうの忘れてた。まあ、軽くならいい。重くなるな。これは重たい命令である。

「自己限定」というレトリックはたまに見られる。その気持ちよさについて私は入不二哲学から学んだところが多いが、あれはどういうことなのか、私はよくわかっていない。これは「自己限定」、いや、「限定」のレトリックにおけるカップリングに解消できるものかもしれないが、それにしてもそのパターンはある程度知っていたほうがいい。そんなふうに思う。哲学的であること分類的であることは疎遠であるように私には思われるが、それを一旦解除してみたい。

物語をはじいている。そう解釈して、「なぜはじいているのか」と問う。それは素朴ではあるが素敵な活動であろう。しかし、それは見落としてはいけないのだ。私たちがそう思っているに過ぎないということを。すでに解釈という活動を存在させている物事を忘れてはならないのだ。いや、別に忘れないように努力するべきだと言っているわけではない。その忘却は必然であるが、それにしてもそこについてよく知りたいと思う必要はあると思うのである。

引用しないとは言ったが熱すぎるので引用させてもらおう。

乳幼児の世話をする者を「母」と想定している核家族のイデオロギーのなかでは、自他癒着の一次的関係から言語体系に参入して自己形成を果たしていくプロセスが、女児と男児では別様に解釈されている。女児は男児と異なって、支配言語に従属するという「精神的去勢」だけでなく、ペニスを持たない身体として名づけられるという「身体的去勢」をも経験するとみなされる。なぜなら愛の可能性は、第二章で述べたように、つねにペニス/ファルス(男根)を特権化する異性愛の形態であるべきだという理解が前提とされているがゆえに、対象選択は異性において決定されているからである。しかし人は自分があらかじめ何者かで、対象があらかじめ何者かであるから、愛するのではない。愛は自我形成と対象形成の同時進行性につけられた名称である。

『愛について』13頁

「人は自分があらかじめ何者かで、対象があらかじめ何者かであるから、愛するのではない。愛は自我形成と対象形成の同時進行性につけられた名称である。」、熱すぎるでしょ。まあ、ここで言われていること自体はスケールは異なれどよく言われることではある。少なくとも私はよく聞く話である。ただ、それが女児が「女」になるのではなく「母」になるという洞察に導かれる話であると考えることが熱いのである。だから私は間違えてはならない。この熱さを安易に形式化することが無性化することであり、それがここでの熱さを失わせることを。そしてこの「失わせる」を学ぶことこそがフェミニズム的であるということを。別にフェミニズムの公式見解は知らない。あるかどうかすら知らない。私にとってのフェミニズムの熱さはここにある。

熱い。もっかい引用させてもらおう。すみません。さらさら読むつもりだったのに。

母と娘は、娘から母へと移行する二つの通時的なカテゴリーではなく、一人の「女」のなかにつねに存在する共時的な双面のカテゴリーである。むしろ母と娘という二つの別個のカテゴリーをつくり、両者を通時的に切り離して、女を娘から母に不可逆的に移行させることこそ、規範的な次代再生産を求める〔ヘテロ〕セクシズムを稼働させているものである。「あなたを忘れない」娘は母でもあり、「あなたを忘れない」母は娘でもある。それは娘=母に、「母」や「娘」といった名づけによってもたらされる規範的な異性愛の身体には収斂しないオルタナティブな物語の可能性を、まさに「母」「娘」と別々に位置づけられているその場所を攪乱することによって、生み出しえるものとなるかもしれない。

『愛について』15頁

いい感じだあ。軽いし熱い。

引用したかったところはたくさんあったがとりあえず読み終えた。なんとなく、次は川瀬和也『ヘーゲル(再)入門』と齋藤純一『政治と複数性』を読もうと思った。幸い近くに本屋があるので二つの本の目次を読んで今日は帰ろう。フィギュアスケーターがリンクを滑っていくように、冬空の上をモノレールのように帰っていこう。家に。バイクに乗って。

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