2-1-12 自分と他者
自分は、ああ、自分は誰なんだ。
と思うこと、たまにはありませんか。
そのたびに、自分は自分だ、などと考えて終わります。
僕は。
「自分は自分だ。」
というのはどういう意味なんでしょうか。
「ユダヤ人はユダヤ人だ。」という言葉がバルトの神話的記号の話で引かれることがあります。
それはユダヤ人が二つのレベルの意味を持つということを表す例としてです。
つまり、始めのユダヤ人という言葉は人種としてのユダヤ人を、あとのユダヤ人は様々な歴史を抱えた(主にユダヤ教の)存在としてのユダヤ人を表しているということです。
これを「自分は自分だ。」の文章と照らし合わせて考えるとどうなるでしょうか。
僕はユダヤ人の例とまったく逆の様相を呈するように思います。
つまり、始めの自分は自分の歴史を背負った自分であり、あとの自分は他者と比べたときの、また別の言い方をすれば、他者と関わったときの自分ということです。
僕は自分は誰か、と問うとき、存在としての自分、つまり歴史を背負った自分は誰か、と問いながら、一方で他者と比べたり関わったりする自分とは誰なのか、と問うているのです。
僕は、ですけれども。
言い換えてみると、時間的な自分と空間的な自分が「自分」というただ一つの言葉に共存しているか競争しているか、それはまだあまりわかりませんが、存在しているのです。
自分という歴史を背負った自分、他者という存在に関わる自分、別にどちらを重視してもいいと思います。
広さは深さであり、深さは広さでしょうから。
けれど、自分がある種の実体であり確固たる自分として生きることが豊かである、と信じるのはあまりに豊かさを欠いている、と僕は思います。
別に確固たる自分なんて見つけなくてもいいんです。
これは「本当の自分」の話や「自分探し」についての話にも言ったことです。
別に自分なんて見つけなくてもいいんです。
もし、自分を見つけたいのなら、豊かな可能性の予感を自分と呼べばいいのです。
自分を語るときに過去ではなく未来を語れば良いのです。
他人にそのことについてどう批判されようが、あなたは私の人生を生きていない、とそう言えばいいのです。
そうすれば、いつのまにか未来は現在と過去になり、なぜかわからないけれど、自分がいるような気がする、ということになるでしょう。
別に誰かの真似をしたっていいし、真似をしなくたっていいんですよ。おそらく。
自分が自分か他者か、なんて考えなくてもいいと思います。
自分は自分であり他者であるのです。「主体であり場である」ということについて言えば、自分は「自分であり他者である」のです。
ただ、傲慢になっているかもなあ、と思いながら、自分が豊かだと思うように自分に従って自分と他者を引用して何か表現し続ければ確固たる自分なんて勝手に生きていくのでしょう。
どんだけ哲学者や文学者を知っていようが、どれだけ詳しく記述できようが、どれだけ俯瞰できようが、どれだけうまく記述できようが、まあ、そんなことはどうだっていいんです。
たしかに認められたい(誰に認められたいのでしょうか)ですが、そんなことを考えても埒があきません。
ただ必要なのは、表現し続けて、可能性の予感を聞き逃さないだけの余裕を持つことです。
僕がそれを持っているかは怪しいところですが、これを持ちたい、という理想を持っているということはたしかです。
それが豊かさを呼び込むのであれば、それだけで充分でしょう。
このような自分の見方をすることができれば、哲学者や文学者、思想家を理解できます。自分なりには。
続ければ誤読もいい経験であり更新ですから、誤読しまくって自分を見つけてからもう一度読めばいいんですよ。
そうです。傲慢でない人間なんていないんですから。