正木ゆう子から鑑賞を学ぶ5
久しぶりに「正木ゆう子から鑑賞を学ぶ」をしよう。第何回かすら忘れてしまった。第五回らしい。することは『現代秀句 新・増補版』の正木ゆう子の鑑賞から鑑賞のなんたるかを学ぶことである。句の引用、私の感想、正木の鑑賞、感想の変容という順番で進めていく。
正直よくわからない。正木に学ぼう。今回は全文引用しよう。
正直、やっぱりよくわからない。私は多分、よくわからなくて、「正木ゆう子から鑑賞を学ぶ」シリーズを中断していた、再開していなかったのである。よくわからないから拗ねて、あとがきとかを読んでいると次のようなことが書かれていた。少し長いが引用したい。(ちなみになぜか知らないが頁数が書かれていないので頁数は書かない。「初版後記」を読みさえすればわかるはずである。)
しかし、これも正直わからなかった。よくわからないなあ、と思いつつ放置しているなかでゆる民俗学ラジオというポッドキャストの#109と#110、「親指を隠す俗信」についての回で霊柩車の話、そして霊柩車の前の葬列についての話があった。正直ぼんやりとしか覚えていないのだが、私はたぶん「柩出る」がよくわかっていない。
はじめ、私は「正直よくわからない。」と言った。そしてなんとか「正木から学ぼう」としてきた。しかし、なんだかリアリティがなく、暖簾に腕押し、という感じがずっとしていた。ただ、「よくわからない」というのは別にゼロであるということではない。ゼロではないがそれがイチになりきることもなく浮遊している、そんなことをここでは「よくわからない」と言っているのだ。まあこれも、ここまで引用してきた文章を読んだからわかったことではある。「学ぶ」というのはAをAとして教えられるということではなく、Aを教えられることでAではなくBがわかったということでもあるのだ。
私は「柩出るとき」で一つの塊だと思った。なんというか、葬儀場でもなんでもいいが、屋内から屋外に棺が出る、その瞬間のことを言っていると思っていた。「とき」をかなり強く取ったわけである。しかし、「風景に橋かかる」というのはそれ自体変な言い方だし、私は言うなれば「棺」のなかにいるか、それともそこの近くで一緒に動いているか、そんなことをしていたのに、「風景に橋かかる」というよくわからないところに連れて行かれたのである。「風景に橋かかる」が変なのは、普通「橋」が「かかる」のはXからYへ、もしくはXとYという二つのところがあって成り立つものである。しかし、「風景」はそれら、XというところとYというところをすでに包み込んでしまっている。だから、それを強く取るなら正木で言うところの「生者」の世界と「死者」の世界という見方が生まれるのだろう。しかし、それは相当変な見方であると私は思う。「佐藤さん」の鑑賞も、「柩≒橋」という鑑賞も「かかる」がそれだとよくわからない。し、そもそも二人とも「とき」をどう考えているのかがよくわからない。というか、「とき」を瞬間だと考えないと「柩出る」がよくわからないし、ある程度幅のある儀式全体を「とき」として考えるのだとすれば「風景」がよくわからない。別に「どちらとも取れる惑わし」があってもいいとは思うが、それはどこかで一時的にでも構築されるものがなくてはならないと思う。私にはこの句が「一句の中に実世界と同様の奥行きを持って、どこまでも鑑賞者の侵入を受け入れてくれる。」感じがしなかった。だからかもしれない。私は正直、この句を秀でた句だとは思わなかった。
別に言い訳ではないが、私がこのシリーズを再開できた一つの理由に飯田龍太が次のように述べていたことが後押しになったということがある。
無駄に突っ張ることはないが、突っ張ることも大切なのだと思う。「学ぶ」ことはスポンジになることであるとしてもそのスポンジのうちに抵抗するところがなければどんな豊穣さも吸収することはできないのである。
推敲中、いくつか繋げられそうなことはあったが、今回は不問にしておこう。それが大事な気がする。今回は。繋げて理解しているみたいにしてはいけないと思ったのだ。