雨乞いと考える
考えた、ということは少しだけわかるが、考えるということはまったくわからない。それは状態なのであり、行為ではない。
雨乞いをしている人を見てみよう。
「雨乞い」というのは状態ではなく行為である。しかしその心性は「雨」を求めている。「雨乞い」で何をしても良いが、踊るとしよう。するとその「踊り」は「雨」を求めるためのものである。
ここで考えてみよう。
「雨乞い」というのは「雨」を求めて「踊る」ということである。ではその「踊る」は「雨」を求めてなされているはずである。つまるところ、「雨」を求めることを「もう一度している」のが「雨乞い」としての「踊り」なのである。「雨乞い」で何をしても良いというのはこの意味でそうなのである。
この極めて究極的な真実の真実味がわかるだろうか。
考えるに戻ろう。
「考える」というのは状態であり行為ではない。いや、正確に言えば、「考えた」は行為の表現であるが、「考える」は状態の表現でしかない。いや、表現ですらないのかもしれない。このことはとても不思議ではないだろうか。
私たちはよく「自分で考える」ということを言うが、
そりゃそうである。なぜなら、「考える」ということが状態なのであれば、その状態にあるかどうかは自分しかわからないはずではないか。
ということは「自分で考える」ということが言われる理由はこの何処かに変調があると信じているからであるとしか考えられないのではないだろうか。
話を少しずらして「自分で考えた」ということはどのようなことを言っているかを考えてみよう。
「自分で考えた」というのは「自分で考えて考えた」ということにすぎない。なぜなら、行為というのは「雨乞い」で考えたように「もう一度する」ということ、もう少し正確に言えば何かを求める時に「もう一度する」ということが行為なのである。ということなら「考えた」の前に「考えよう」があったと考えるしかない。ということは「自分で考えた」というのは「自分で考えて考えた」ということにしかなり得ない。
「考える」というのは行為ではない。状態である。ではそれはどのような状態なのか、というと、「考えた」を行為として持ち得るための状態なのである。
言うなれば、「考える」というのは何を求めて「もう一度する」ことを内包しているか、ということこそが問題なのである。
「考える」というとき、私たちは何かをしているのだろうか。いや、何もしていないのである。
ただ私のそばで誰かが、何かが、私の周りで誰かが、何かが、私の上で、下で、誰かが、何かが「考えた」のを見ているだけなのである。誰も「自分で考える」ことなど不可能なのである。どうして「自分で考える」なんてことが言えるのだろうか。それは程度の問題でしかない。他人の受け売りの程度の問題でしかない。私はそんなことに興味はない。
私が「考える」のは「考える」ということだけである。「考える」ということが行為ではなく状態であるという確信をどのように構成したか、そしてどのように再構成するか、それだけが「考える」ことには重要なのである。
「雨乞い」は「考える」と遠いように見えるが、あれは純粋な「考える」である。「雨」は「恵」の象徴なのである。それを求めるということはもはや探究し得ない。それをどのように行うかが私たちには許されている選択なのである。
やっぱり「考える」は「待つ」なのである。「考えた」は「待った」ではないのにも関わらず。
果てしなく広がる宇宙と思考とが見えたのに、私の非力でそれが形にならなかった。
だからきっと「もう一度する」。何をするか。「考える」のである。「書く」のである。
真理の手前で誰かに出会ったのである。