2-1-7 自分の文体の話

自分という存在が他者の中に存在する自分から発見される、という言葉を僕は繰り返し繰り返し語っています。
他者の中に存在する自分から発見される自分という存在は集積としての自分も自分像としての自分も未知の自分もすべてになる可能性があります。
では、僕は自分を自分で発見できないのでしょうか。
と問われると、僕は困ってしまいます。
僕はそのような道筋で自分を捉えたことがないのでそういう仕方はわからないのです。
まあ、それでも自分で自分を発見したい人は圧倒的な出力で何かを表現し続け、それを自分で見たり読んだりしなければなりません。
僕はその自分もまた何かに同期して勝手に表現されられている自分であるから他者であるように思います。
僕の思考世界では自分も自分の世界も他者の一種に過ぎません。
確固たる自分というのも自分がたまたま歩んできた道を名付けたものに過ぎません。
止まってしまえば、その自分は消えていってしまい、僕は自分を諦めることになります。
なので、表現し続けなければ自分は消えていく一方で僕は呼び声を聞くことも豊かな可能性をそこに見ることもできなくなっていきます。
表現される、という営みは自分の文体をいつのまにか創造しています。
それが他の人と同じであるように感じられようとも、同じであることはありません。
個性を求めて個性的なことをしていては意味がないのです。
僕がもし自分探しをするとすれば、自分の文体を探すことになるのです。
そして僕が自分を見つけるのは他者の文体が乗り移ったその自分を同期しながら同期していないという形で知ることによってしか達成されないと僕は思います。
その同期するという行為によって得られた自分はおそらく皆さんが探しているような「本当の自分」です。
たとえ、他の人の「本当の自分」と似ていようと、僕の「本当の自分」は他者にとって知る由もありません。
それでいいのです。
それは諦めというよりも理解です。
自分を知りたい!とか、自分を表現したい!とか、本当の自分を見つけたい!とか、それは圧倒的な出力を感じてこその自己理解なのです。
僕の大好きなショーペンハウエルの言葉に「学者とは書物を読破した人、思想家、天才とは人類の蒙をひらき、その前進を促す者で、世界という書物を直接読破した人のことである。」というものがあります。
僕たちにとって世界という書物は僕たちの表現した表現の連なりのことではないでしょうか。それを理解することこそ新たな世界を切り開くただ一つの方法なのです。
ショーペンハウエルは多読を嫌いますが、それは他人の書物をあたかも自分の書物であるかのように詐称して読む人たちのあの厚顔無恥に対してだと思います。
ショーペンハウエルほどの人がそんなことを許すはずがありません。
文体、という面で言えば、ショーペンハウエルは圧倒的に正しいと思います。正しさとは抗えない美しさのことかもしれません。パスカルもそうですが、文体の天才というのは語り口からして世界なのです。
そんな世界に憧れるのは、他者の書物を自分の書物として読むことなのでしょうか、そして、そのような表現とは厚顔無恥なのでしょうか。
僕はそうは思いません。
たしかに無知はとても嫌な匂いがしますし、雄弁はとても傲慢な香りがします。しかし、その香りを愛して憎んで、それでもなおそれをせざるを得ないのが人間なのではないでしょうか。
それを認めて表現をただ続けることこそが「自分」を見つけることとなるのではないでしょうか。
たしかに、僕もそのような表現に対して怠惰になります。しかし、自分を発見したいという意志と行動はある瞬間に感動として結実します。その感動を愛し、感動に愛されることこそ、人間の人間たる最高の美しさと喜びでしょう。

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