論文というものを書いてみて

今日は珍しく夜遅くまで起きている。
そしてこの文章を書いている。
これがいつ出されるかは知らないけれど、とりあえず書いてみたいことがある。

と言いながら、眠いから忘れてしまった。
書こうとしていたことでは絶対にないけれど、今思いついたことを書こうと思う。

主体としての学びと場としての学びについてである。
私は一応大学四年生なので卒業論文を書いている。
いつになく躍起になっている私は関係がありそうなものを片っ端から読んで、腕っぷしだけでどんどんと進んでいっている。
気がつくと二万字辺りまで来ていて、「短くしなきゃな。」なんて思っている。
なにせ、まだ8章あるうちの3章しか書いていないのである。
私は目次を立ててから書くのがとても苦手で、だからこそ「書く」ということを集中的に行なって、それを「編集する」ことによってかろうじて論文の形にしている。
別にそんなに急ぐことでもなくて、おそらくこのペースでいけば論文としては三日くらいで完成すると思われる。
しかし、私の形而上学的衝動はその安易な解決を許さないようである。
私はゼミの先生に言われた課題を早々に終わらせて、その中で見つかった無限に向かう衝動、哲学的衝動とずっと闘っている。
自分の論文ではないものを読んでいると「しょうもないなあ」と思うものが多い。それは「こんなことやってなにになるんだ」ということではなくて「ここをつっこんでくれよ」ということである。
私はそうならないように自ら突っ込んで必要そうなものだけ集めてくることによって論文という形をなしている。
その形の裏側や歴史にはもっとたくさんの思考と文献と文章がある。
私は削って削ってやっと二万字におさまっているのである。
おそらく卒業論文で書くようなテーマではないテーマで書いているからなのであろうが、いくら学んでもそこには「わからない」があるし、「そもそも」がある。
私は論文という形式はもしかするとこのことの解決のためにあるのかもしれない、と倒錯し始めている。

各章というのはテーマのテーブルのことであり、私はそこに集結する考えをファシリテートしていくつかの結論を引き出し、それをいくつか連続させることで各章で行ってきたこと同士をまたファシリテートする。
この繰り返しによって無限を有限の形にしていくことこそが論文を書くことの意義であるような気がするのである。
論文では「気がする」なんて書けやしないからここで書いている。
しかし、「気がする」というのは大事である。
そう、これこそが哲学的衝動なのである。
しかし、これを有限のものに囲うことは絶対にできない。
だから論文は生まれたのだ。
私は「論文」の歴史について知らないけれど、そこには無限を有限におさめるリズムのようなものがあったと考えて良いだろう。

私の論文がまた他人の論文に登場するというのは「学問」にファシリテートされるということである。
私は正直自分の論文が論文としてどう評価されるかあまりわからない。
私は論理の飛躍が多いとよくゼミの先生に指摘される。
しかし、論理に飛躍がなければ論理など必要ないのであるし、そもそも論理は飛躍を待つためのものであるから飛躍がなければ存在する意味がないと思える。
まあ、私がまだまだ浅いからこんなことを考えているのかもしれないが、真相はわからないし、きっとこれらは価値観の相違ではなくて、表現の相違でしかない。
その奥にあるものを掴み取る力強さこそ私が論文で鍛えるべき最たるものである。

最初のテーマを忘れていた。
論文ではこのようなことは許されない(と思っている)。

主体としての学びというのは私の論文を書くということに関する学び全てを指す。そして場としての学びというのは論文の各章を指す。そして成り立った全体にこそ主体としての学びと場としての学びが重なるところがあるのである。
それがおそらく論文というものの本質である。
そのために「引用」は開発されたのである。
また、私以外の人もこの学びの二形態を当然行なっているとするならば、「豊かだ」と思うこと以外が不可能なくらいに豊かであると考えられる。

楽しいなあ。
論文を書くのは。
頭を悩まされることがほとんどだけれど、楽しい。
この楽しさは面白い人の話が目の前で繰り広げられているのを見ている時の楽しさに似ている。
それを生み出すために私がその場をファシリテートする主体として活動する。
論文はこんな感じの楽しさを持っている。
そしてまた私も誰かのテーブルに混ぜてもらって、「こうだと思うんだけどなあ。」と困った顔をしているのが見たい。
純朴な私はそう思う。意地っ張りな私の話はまた今度しようと思う。
では。

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