正木ゆう子から鑑賞を学ぶ8

さて、「正木ゆう子から鑑賞を学ぶ」シリーズの第八回をしよう。今回は特に新しいことをせずに『現代秀句 新・増補版』から鑑賞のなんたるかを学ぼう。流れとしては句の引用→私の感想→正木の鑑賞→感想の変容という形で進んでいく。では、行こう。

山を巻く一筋縄の涼しさよ

橋閒石

なんとなく、悟空の頭に巻かれている、あれなんだっけ、名前、忘れちゃった。あれのイメージが浮かんだ。青々とした山に縄がぐるりと巻かれている。ことによって涼しさが感じられる。そんな、涼しさの象徴的、かつ具体的なものとしての「一筋縄」。意味のずらしはわかるけれど、そこはあんまり、なんというか、大して惹かれなかった。それよりも、涼しさを縄に凝縮、圧縮すること、そんな感じの魅力を感じた。あと、「山を巻く一筋縄」というときの「を」も少し気になった。空想でしかし能動的に、という感じを受けた。巻くことで山と縄が生まれ、その誕生自体が「涼しさ」であるような、そんな感じを受けた。

では、正木の鑑賞を見てみよう。今回は一部引用する。

連句の発句を脇句以下から切り離して俳句と呼んだのは正岡子規である。そこで俳句は個人的な表現として近代化したわけだが、そのことはまた俳句に微妙な変質をもたらした。発句はあくまで脇句以下を想定して連衆へ向かって開かれているが、俳句はそうではない。より多くの読者へ向けて開かれているとも言えるが、他の追随を許さない個性的な表現を求めるという意味では、遊びから遠ざかり窮屈なものにもなった。子規以降の近現代俳句に関わりなく旧派として連句の修練を積んだ閒石は、そのことをまぬがれている。自らも遊び、読む人をゆったりと遊ばせ、発想を刺激する余裕が、閒石の句にはある。
掲句もそんな一句。「一筋縄」とは普通は「一筋縄ではいかない」と使う。それを一筋の涼風として、本来の意味をずらしているわけだが、そのことで涼しさが強調されるとともに、読者は言葉の使い方の面白さを楽しむことになる。

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なるほど。縄は風のメタファーとしても受け取れるのか。なるほどね。だからこそ「一筋縄」の意味をずらすことで「涼しさが強調される」と考えることができるのか。なるほどね。なるほどね。

そして、その「ずらす」を「遊び」として、それを俳句よりも前の連句に接続するのは単純に勉強になるなあ。ただ、私の好みはやはり、連句よりも俳句なのだと思う。それとは別に、だが関係あることとして、私は「改作と鑑賞」が好きで、鑑賞することよりも好きで、その好みが連句よりも俳句、そして俳句よりも集句(こんな概念があるのかは知らないし、似た概念があるだろうとは思う。類句とは少し違う。とは思っている………)として表現できるのではないか、と思っている。「集句」というのは連句から順番性を剥ぎ取ったようなもので、類句から分類性を剥ぎ取ったようなものである。私の例で恐縮だが、私は「蜜柑」と「目(の閉じ開き)」について以下の一連の句を作った。

目を閉じて蜜柑に世界ぴちゃ開く

目を閉じて蜜柑みたいなぴちゃ見たり

蜜柑食べ目を閉じ開きぴちゃぴちゃり

まばたきで蜜柑の別れ悟り抜く

この句はどれも良い句だと私は思う。まあ、それ自体は別に人それぞれ感じるものだからいいのだが、この集まりで一つ、という感じが私はする。俳句としてあげるなら最後の「まばたきで蜜柑の別れ悟り抜く」だが、これも「蜜柑」と「目(の閉じ開き)」の周りを散策した記憶のうちの一つ、の塊であり、それだけを独立させることはできないと言えばできないように思われる。

このことについては番外編で一度素描しておく必要があるかもしれない。また、「改作と鑑賞」もしたいなあ。それは単純な愉しさであるから。以下に二つ挙げておきます。「改作と鑑賞」を。どちらもとても私らしく、とても優れたものだと私は思います。


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