電車と友人とヒップホップ
久しぶりに電車に乗っている。ある程度長く乗るので何か書こう。
私は電車なりバスなり、公共交通機関での移動が好きである。そして、その好きはおそらく、「何もしなくても勝手に目的地に着くから景色に集中できる」ことによるものだと思われる。このことを私は極めて象徴的に取っていて、色々なものの比喩として極めて優れたものだと思っている。例えば人生とか。
ただ、このような感覚は公共交通機関に習慣的には乗っていないときに生まれたものであることには注意が必要であるように思われる。言い換えれば、ある程度新しい経験だからこそこのような感覚があることは付け加えておくべきであると考えられる。
さて、私としては公共交通機関を堪能したいところだったのだが、色々と連絡しないといけないことがあってそれを済ませた。
さて、ぼーっとしていたら電車を乗り過ごしてしまう。私は結構乗り過ごすことがある。寝ていないのに。
今日は結婚式。先輩の。一回くらい乗り過ごしても大丈夫な電車に乗っている。
「天高し」という季語がある。最近それを実感した。空がやけに高い。空気がやけに澄んでいる。
なんかいい感じに乗り切れない。一回ぶつんと切れてしまったからだろうか。ブルーブルー。マリッジブルーのマリッジをブルーに変えてブルーブルー。
ちょうど乗り換えの駅に来た。駅に来たり。
突然ご祝儀を入れたか忘れてしまった。不安になってきた。あとで確認しよう。ご祝儀袋自体はある。中袋もある(だろう)。ただ、そこに中身があるかがわからなくなってしまったのである。不安になっているのである。忘れているのである。
方法について考える。方法とセットになった問題について考える。方法から外された、極めて抽象的な問題については考えない。別に考えてもいいが、考えすぎない。
メルロ=ポンティとLIBRO。「シグナル(光の当て方次第影の形)」。
このように、私は移動時間にぼーっと考え事をしている。それに入れ込みすぎると、私はブルーブルーになる。考え事をしたかったのに!と微かに思う。そのまま素知らぬまま粗雑に存在してしまう。してしまう。そんなこんなでブルーブルー、ブルーブルー。
赤ちゃんが、険しい顔で赤ちゃんが、電光掲示板を見ている。母親に話しかけられている。まだ目線に疎いのだろう。と思っていたら目が合ってしまった。
私の後ろが開く扉だった。私はちゃんと外を見ていたのでそのことに気がついた。そこにあったのは壁。
エスカレーター、上がって行く。反対側は下っていく。エスケープ。PSG。
ぐるぐるぐるぐる、私の足元、エスカレーター、バイブレーション。バイブレーターとしての文章。
エレベーター。また後ろ側が開いた。扉。幼い、八歳くらいの女の子が「開く」を押し続けてくれる。清々しく、そして少し恥ずかしい気持ちで外に出る。地上に出た。
さて、最寄りの駅に着いた。ご祝儀の確認をしよう。祝う気持ちはもちろんある。
さて、確認しようとしたのだが、封がされていて確認できなかった。厚さではわからない。光に翳し、中身があることは確認できた。しかし何枚入っているかはわからない。ちゃんと入れたとは思うのだけれども。
都会に来た。それだけで少し疲れてしまう。一緒に行こうと約束した友人はあと十五分くらい経たないと来ないらしい。
「KILLEME」(Campanella)。アドマチックヘブン。アド街ック天国。
電車が通り過ぎる。止まらずに通り過ぎる。そこに映る私。揺れているからこそちゃんと見える。ような気がする。ちゃんと映りすぎると逆に揺れていく。
「俺と音楽いつも二人きり」(「Shoo-in」(Campanella))。
駅の構内から見ると空は、やけに平面的である。都会が平面的なのか、それとも駅の構内にそういう装置性があるのか、それとも私の目が極めて平面化する力が強いのか。それはここではわからない。
影絵に見える。秋の夜の木々は。揺れない。無時間。しかも揺れる予感すらない。ただ凍った世界。滞った理解。その快楽を採択する。一人で「見者」となる。
「万物は図らずも常に単純 ゆえに探究 するために未だ反芻」(「Still In Da Labyrinth」(Winp))。
交差する点で待っていれば出会わないことはない。友人がどの階段から降りてくるかは知らないが、この駅は一つの出口しかない。一つの入り口しかない。ここに来るはずだ。知らない駅なのでもしかしたら違う道があるのかも、知れないが。
友人がそろそろ来る。今回の文章はこれで終わりだ。友人を待ちながら。