ギリシア人
ギリシア人というものは英雄というものがお好きらしい。
これは立派な悪口であるが、彼らは英雄になろうとしていた。
だから?
と問われれば、哲学が生まれた、としか言いようがないようなことが起こったのである。
ホワイトヘッドのあの有名な言葉。
「西洋哲学の伝統はプラトンの哲学の注釈に過ぎない。」
を借りれば、
「哲学の伝統はギリシア人の注釈にすぎない」のである。
多くの哲学者はその晩年、古代ギリシアにノスタルジーを感じる。それはおそらく哲学が持っている遡行という現象によるものであろう。
遡行とは問うて広げることをいう。
後ろに、つまり、過去に問うのだが、いまよりめより明るく広く、そして深く理解するために私たちは遡行せねばならないのである。
これはまた現象学的還元のようなものでもある。
過去に問うということは、未来をひらくということでもある。人間は二重の存在なのであり、それはアイロニカルな形式によって象られた自己意識と他者意識によって存在している存在者である。
ギリシア人へのノスタルジーというのは、この運命のような形式的意識に対する抵抗が哲学が生まれたその瞬間にひらかれたという出来事としか言いようのないものによってなされている。
なぜ、哲学者は晩年ギリシア人に憧れ、ギリシア人は英雄に憧れるのか。
単純に結論づけようとすればこうである。
「哲学者は英雄として存在しようとしている。」
と。
英雄として存在するということはアイロニーが極限まで高められるということである。
つまり、ナポレオンが敵にとっては蛮勇でしかないこと、オイディプスが信託に逆らおうとして信託を守ったこと、この二つのように、人間はある種英雄であることしかできないのに、また、限られた歴史のうちでしか英雄として生きられないのに、真善美が本当に存在すると信じて、そう、おそらくは意図的に信じて生きていくしかないというその矛盾が英雄を英雄たらしめる唯一の性質であることを踏まえると、哲学者は矛盾を生きたかったのである。
なぜ?
そんな矛盾を生きたいのか。
それは矛盾が魅力的でありいつの日か矛盾そのものが矛盾するような、つまりあっけらかんとした矛盾というものをつくり、それによって生きていきたいという諦観の諦観のような生き方を理想としていたからではないだろうか。
「魂に善き計らいを」
というのが哲学なのであり、計らいとは始点からの出発のことではなくて、中間地点の認識なのである。
実存主義はそのようなことを強調して、アンガージュマンなどと言っているが、あれでは矛盾を生きていく哲学が生まれる可能性がどんどん閉じられてしまう。
哲学とはある一定の形式を持った思考のことでありその思想のことである。
その一定の形式というのは、矛盾をあっけらかんに捉えるための諸形式のことであり、その諸形式に共通するのは英雄性があることである。
この英雄性というものは、人間の生には明らかにこびりついた裏側が存在するということを認める態度のことである。
死者の亡霊が一番見えるのは支配者である。
と、誰かが言っていたが、英雄とされるものは多くの死者を見るのである。
それは人間が生きているという逃してはならないような事実、一番事実らしい事実が崩れる可能性への自覚の形象なのである。
ギリシア人というのはアイロニカルなヒーローなのである。
ソクラテスが用いた問答法。
つまり、相手が知らないことを知らないと知ろうとすること、それが哲学の根底として認められるのは、それがこびりついた裏側を裏側として、つまり表側を喪失してまでその裏側を認識しようとするその積極的態度をこそ哲学者は根底に置いているのである。
それは科学的態度などではなく、あの積極的な態度ではなく、むしろ消極的に自分の信じざるを得ないことをどうしても確信として確立していく過程に哲学者は生まれる。
それは当たり前である。
なぜなら、そのような状況に置かれない人間は哲学など必要ないのであるから。
その意味で実存主義、つまり投げ込まれた状況で生きよ、というのはその初源として認めることができるかもしれない。
しかし、私がそれを認めようという意欲が湧かないのはそれを認めたところでスタートラインを見るだけだからである。
つまり、競争ではない哲学が意見として競争させられるようなスタートラインを実存主義は見極めようとしている気がしてならないのである。
それは悪いことではないと思うが、私は興味が湧かない。
なぜなら、そんなことは哲学者ならずとも人間皆理解しているからである。
人間は英雄になりたい。
英雄譚が途切れないのは、出自を偽るのは、そのためである。家柄を主張したり、学歴を主張したり、広い意味でマウンティングを、明示的にではなく暗示的にでも感じたいのは、人間が英雄的生き物だからである。
これは偉いとかそういうことではなくただそういう自己認識が不可欠な生き物であるというだけである。
表現者は人間であろうとして人間である。
だからその奥底の矛盾、なにをしても運命らしきものに運命として生きられてしまう、というあの確信が胸を裂いている。
文学者はその血の流れ出す様を、哲学者はその血の赤さを探究せずにはいられない生き物なのである。
ギリシア人への憧憬、それはイデアなどへの憧憬ではなく、この社会を定義した何かへの憧憬なのであり、人間的な憧憬ではあるが、人間の憧憬ではない。
哲学者が晩年憧憬を感じずにいられないのはもともとそこから哲学者としての人間が生まれたからである。
その矛盾とアイロニーとが呼び醒ます人間の人間の本質を探究せんとせざるを得なかった哲学者がそれを理解するのを理解するのは難しくない。
けれど、言葉が足りない。
ギリシア人は言葉がもしかすると足りたのかもしれない。というのが晩年の哲学者の少し子供っぽい負け惜しみなのである。