改作と鑑賞7

今日も変わらず「改作と鑑賞」をしましょう。「改作と鑑賞」とは何かというと、昔、いや、数週間前に自分が作った句にやいのやいの言ったり、作り直したり、閃いたり、そういうことをすることです。では、始めましょう。見ていたらわかります。

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この髪の奥に頭蓋や冬の朝

うーん。直すところはないと思いますけど、なにを表現しているのかはよくわからないですね。私は作者本人なのでなにを表現しているか、なにに触発された表現なのか、はわかりますが、わからない人にはどういう感じに見えるのでしょうか。うーん。私はやっぱり自分の記憶に頼ってしまうのでこのまま置いておきましょう。

冬の朝光はモザイク旅したり

うーん。改作したら分かるようになる気がします。

ただ、うまく改作できません。またの機会に託しましょう。

カーテンや冬の光に規則あり

これはねえ、「規則」がまず句になりにくいと思うんですけど、それ以上に「冬の光」のパキパキした感じを取り出したほうがいいと思います。もっと。

→冬日差し規則正しく溢れけり

朝、起きて、カーテンを見る。開ける前に見る。すると上にも下にも、とても白い光が溢れている。そんなふうに思えます。まあ、これはめちゃくちゃいい句だとは思いません。ただ、日差しもまっすぐで溢れる仕方もまっすぐで、そんなまっすぐさを冬に見るのはいいと思います。少なくとも私にとって冬はまっすぐなものです。「まっすぐな道でさみしい」(種田山頭火)はもしかしたら冬で読むことができるかもしれません。

まっすぐと車進めり冬の朝

もちろん、いつでも車はまっすぐ進んでいますよ。ただ、「冬の朝」が一番そうなのだ、と言い切っているわけです。冬とまっすぐの組み合わせですね。好きなんですかね。私は。

あれ、「まっすぐに」じゃなくて「まっすぐと」か。意味がわからないので直しておきましょう。

→まっすぐに車進めり冬の朝

外に出てまだ暖房の音したり

うーん、「外に出て」が説明過ぎますね。

→電線やまだ暖房の音したる

句意を取るのが難しいですけれど、私は冬は電線も凍って、あまり振動すらしない、別に他の季節が振動することで電気を伝えているわけではないのになぜか、透き通っていて振動しなくて、なんだか不思議に思う。そんな不思議に思うことへの不思議さが「まだ暖房の音したる」に現れているように思います。まあ、あんまりいい句ではないですね。正直。私はそう思います。

耳の原凍ってしまったらどうするの

どうもしないですが、耳がキーンとなったり、泣き声が聞こえたりするんですかね。「耳の原」というのは不思議な言い方ですが、耳の入り口にある細かい毛たちを「耳の原」と呼んでいると私は思いました。

冬の朝ほのかに照れり白い部屋

だめですねえ。この日は調子が悪かったんですかね。たくさん作りすぎですかね。

→春近し部屋にほのかの集まれり

相当捻った表現ですけど、「春近し」が願いっぽくていいと思います。

冬の朝鳥の瞬き致命傷

句意としては(そんなことをするのかは知らないですけど)「冬の朝」だと「鳥の瞬き」は「致命傷」になる可能性があるのではないか、みたいなことだと思います。なぜかわかりませんけど、私は瞬きをした瞬間だけ凍る鳥の様子が見えました。

→瞬きの鳥の凍れり毀れけり

ぱっしゃーん、って感じですね。春が来そうですね。意味がわからないと思いますけど、これくらいゆるいというか、解けていたほうがいいときもあります。いつもそうだとは言いませんけど。

街路樹の汚い光も集めけり

私は、この作者は「街路樹」がとても好きなんですよね。この句も妙に味があるように思ってしまいます。私は。まあ、名句ではないです。

→街路樹にゆたりゆたりの春溜まる
→街路樹にゆたりゆたりと春溜まる

どっちも私は好きですけど、前者のほうが好きですかね。街路樹の内側に光が、暖かさが、艶やかさが溜まっていく感じがします。「と」だと少し、繰り返し感が強くなり過ぎてしまう気がします。あと、私たちはこんなにゆっくり生きられない気がします。

形態の我とは真逆の冬の朝

よくわかんないっす。すんません。また出会えたらいいですね。

イヤホンを外して我は静かなり
→イヤホンを外して冬は静かなり

イヤホンをつけているときのほうが音は整っているし、雑音は聞こえないはずですけど、外したときのほうが「静か」であることはわかる気がします。別に「我」でもいいですし、「世界」じゃなくて「我」になるのが不思議で魅力的でもありますけど、まあ、

→イヤホンを外して何か凍りけり

これのほうがいいですね。詩的で。

刷毛取りて冬の山々なぞりおり

「あ、忘れてた。」みたいな感じで神様が「春の刷毛」みたいなものでなぞっている感じがします。昨日「春の街光の刷毛で撫でられり」という句がありますけど、私にはそういう感覚があるんですかね。この句は「春の街光の刷毛に撫でられり」のほうがいいかもしれません。なんというか、こっちのほうが神である私と人である私が曖昧になって呪術的で、魅力的です。

悴みてそろそろ木にもなりかねん

ならないですけど、悴みすぎると感覚がなくなってきて、木になりそうになるというのはなんとなくわかります。お風呂とかに入ると悴んだところだけ春みたいになっている感じもありますね。なんだか。

凍りけり七割くらいは透けるやも

人間の七割は水らしいので、とでも言いたげですね。悴んでいるときはまだ自分の皮膚があり精神があることがわかるので悴みの果てを感じます。

→悴みの果ての世界と人体と

うーん。駄作ですねえ。いまのところは。

曼珠沙華「異」という字に似ていたり

もっと似ている字はあるかもしれませんが、これがしっくり来ますね。急に思いついたのでびっくりした記憶があります。「異」の読み方は「い」なのか、「こと」なのか、どっちなんでしょうね。好きなほうで読んだらいいと思います。

冬の雲稜線踏みてつんのめり

冬の雲って稜線を越えない感じがします。この句は冬の雲は稜線を越えたくないけれど越えてしまいそうになっていることを描写していると私は読みました。

眠たいので一旦終わります!続きはまたあとで。この日はいい発想もまあまあありますね。ここまでもありましたし、微かに見えたここからもありました。では。誤字があればいい感じに補完しておいてください。

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