待ち時間から移動時間へ─幸せとは何か

オイル交換をしようと思ってバイク屋さんに行った。私が「リトルネロ」の意味を実感として理解することのきっかけになったバイク屋さん。

閉まっていた。しまった。確認していなかった。定休日を。というか、私は定休日を確認する習慣もなければ、覚えておく能力もない。なので後悔しても仕方がない。

「リトルネロ」については以下。

ガソリンを入れて、私は気持ちを切り替えた。遠い、「めちゃくちゃ大きい本屋さん」に行こう。そう決心した。私は寒空の中、街路樹の内側をそれとして、スローモーションで見ながらバイクでブンブン、都会まで行った。バイクを停めて、私は歩き出した。服装が寒すぎたので後悔していたが、そんなことは気にせずお気に入りのラーメン屋さんに行って「めちゃくちゃ大きい本屋さん」に行って本を五冊も買った。律儀に「断哲」しながら。俳句の本と短歌の本、俳句と短歌の本、それらはいま、私の目の前にある。

イヤホンをせずに帰った。風の音やクラクション、サッカーボールが柵に当たる音、焦った子供の顔、美しい空、助手席から運転席の彼に話しかける横顔、そしてやはり木を見ながら、帰った。そして家に帰ってから文章を書いて、いまここである。

「断哲」については以下。

私は半分くらい、もしかしたらそれよりも大きい割合で「待ち時間」を貰いにバイクショップに行った。異世界であるようなそこで私は、『志賀直哉随筆集』でも読んで、「リトルネロ」をしてやろうと取っていた。しかしシャッターが閉まっていた。やけに寒い日だなあ、と誤魔化して私はUターンをした。

ガソリンを入れながらイヤホンを耳に入れた。そして、ゆる民俗学ラジオというラジオの#108「医療より魔術が信用されるのはなぜ?」を聞いた。ラーメンを食べているときは令和ロマンのご様子というラジオのシーズン16-2「ご連覇」を聞いた。そのあとはKohjiyaというラッパーの『KJ SEASON2』というアルバムを聞いて「めちゃくちゃ大きい本屋さん」で立ちくらみにびっくりしながら本を選んだ。いい本が選べた。そう思った。そう思っている。まだ読んでいないけれども。

「待ち時間」も「移動時間」も「幸せ」である。なぜか。気が散らないし、気の散らしようがないからである。いや、気の散らしようがないというのは不幸せだ。気が散ったとしても美しい景色や新鮮な風景が目に入る。そんなことが「幸せ」なのだ。私はラジオや本によって「リトルネロ」を達成し、本当の意味での「断哲」も達成するのである。本当の「幸せ」とは何かと言えば、「○○だから幸せ」と一応は言うけれど、本当はそれが「幸せ」かどうかすらわからないことを知っていることである。知らんけど。

いいなと思ったら応援しよう!