正木ゆう子から鑑賞を学ぶ12

今日もやっぱり「正木ゆう子から鑑賞を学ぶ」をしていきましょう。するのは『現代秀句 新・増補版』で展開される正木ゆう子の鑑賞から鑑賞のなんたるかを学ぶということです。句の引用、私の感想、正木の鑑賞、感想の変容という流れで進めていきます。今回は「私の感想」パートを素直な、素朴な、そんな感想にしてやってみましょう。

おぼろ夜のかたまりとしてものおもふ

加藤楸邨

こういう、「春めきてものの果てなる空の色」(飯田蛇笏)みたいな、なんというか、観念的でありながらリアリティのある、そういう句、私大好きなんですよね。
あと、これは感覚的な話なんですが、こういうふうに逆にクリアにぼやっとしている感じを描き出すのは、「ものおもふ」前でも後でも最中でもできそうにありませんから、それゆえにクリアさが増しますね。
暗いところで姿見を見て、少し体を動かすと、夜が揺れているみたいになると思うんですけど、ここには動きとか揺れとか、そういうものすらない感じがしますね。
長くなってきているのでそろそろお風呂に入りますけど、一つ前の段落と矛盾するような感想かもしれませんが、ほんの少し、微かに体がカラカラ鳴るような、そんな寂しさにも嬉しさにも似た音が聞こえてきますね。この句からは。
では。正木はどういうふうに鑑賞するんですかね。楽しみです。今回は完全に初見です。

お風呂に入りました。少しだけ話してもいいですか。話しますね。
「もの」というのが蛇笏の句にも楸邨の句にもありますが、私はこれらの「もの」が次のような感覚と響き合うと思うんですね。

わたしは長いこと、人間は夢のなかにいるのだと思っていたのですが、ある日、花をながめていて、それが完全に間違っていることに気がつきました。正しくは、わたしがこの世界を夢見ているのではなく、世界がこのわたしを夢見ている。

『なしのたわむれ』18頁

他にもこんな感覚。

私があるということと、私が花を見ているということと、そして花があるということとは、いずれも端的に同一のことの三つの側面をなしている。一つのことが、生きいきとした現実としていまここに─つまり、いわば私と花とのあいだに─生起していて、この現実の躍動を向う側へ託けて言うと「花がある」ということになり、こちら側へ引き受けて言うと「私がある」ということになる、そういった構造になっている。

『自分ということ』53頁

このような感覚は私の「もの」という感覚の根底にあると思います。なんの話がしたかったというと「ものおもふ」をそのまま受け取って「もの」が「おもふ」のだと、「私」もその一つに過ぎないのだと、そういうふうにも思えるのではないかと思ったわけです。その舞台として「おぼろ夜」があり、「一つに過ぎない」が「かたまりとして」というふうに言われているのではないか、そういうふうに思ったわけです。長くなりました。正木の鑑賞を読みましょう。

うーん、あ、読みました。なんというか、解釈としては違いましたけど、そこからの広がりにおいては思うことがありました。ゆえに全文引用します。

おぼろ夜とは朧月夜のこと。水気を含んだ空気に、月も重たく滲んで見える春の夜である。かたまりは作者であるが、こういうときの物思いとは、もちろん理路整然としたものではないだろう。おぼろという語が表わすように、輪郭のはっきりしない茫洋とした、心の奥の混沌を覗き込むような物思いである。
そういえばこの句における楸邨自身、まるで『荘子』に出てくる<混沌>のように、目鼻がないようにも思われる。だからこそ「かたまり」なのだろう。楸邨は未分化な混沌そのものとなって、夜の闇よりも濃く、おぼろな夜の中に座している。
『荘子』において、目鼻を持たない<混沌>に、よかれと穴を穿ち、ついには殺してしまう<倫>と<忽>は、ともに素早いものの意だというが、楸邨は<混沌>のようにどこまでもゆっくりと、深く、鈍く、重い者であろうとした。
掲句を収めた句集『吹越』(昭和五一年)には、この句のすぐ後に<はなびらや蟇の目玉の考へる>があり、ぼんやりと物思いにふける目鼻のない楸邨と、目玉のあって賢そうな考える蟇とを並べてみるのも一興である。一方、次の句は妻の詠んだ楸邨像。
家中に夫の沈黙梅雨に入る
加藤知世子

16頁

これはこれで素晴らしい鑑賞ですけど、私とは解釈が違いますね。特にお風呂上がりの私とは。「かたまりは作者である」と私は思っていませんから。ただ、それはまあよくて、そのあとが問題です。問題といっても愉しい感じですけれど。

「ゆっくりと、深く、鈍く、重い」ということと「目」のあるなしとを繋げる。『荘子』と『吹越』と加藤知世子を用いて。極めて重層的で、それでいて愉しい。こんな鑑賞が出来たらいいなと思います。が、私のものもだいぶ哲学には寄っちゃっているかもしれませんが、別の素晴らしい鑑賞だと思います。私は。

ここからはなんというか、連想でしかないのですが、私は二つの連想をしました。一つは正木自身の「春の月水の音して上りけり」という句。もう一つは、なんというか、まだちゃんと詩にはなっていないんですけど、私がよく見るイメージに月と穴の空いた卵みたいな形の白い陶器みたいなものというものがあって、月の蜜のような雫が穴から入って穴から垂れていく、みたいなものがあって、それを思い出しました。

これ以上は鑑賞のなんたるかを学ぶということから逸れると思うのでまた機会があれば広げていきたいと思います。はじめてこういう感じの鑑賞の仕方をしましたけど、案外いいものですね。では。

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