正木ゆう子から鑑賞を学ぶ11
「正木ゆう子から鑑賞を学ぶ」シリーズ、第十一回である。前回、第十回はそこまでの振り返り、そして少しだけ前を向いたものだったが、別にすることは変わらないので引き続きしていこう。ここでするのは『現代秀句 新・増補版』で展開される正木ゆう子の鑑賞から鑑賞のなんたるかを学ぶ、ということである。流れとしては句の引用、私の感想、正木の鑑賞、感想の変容というふうに進む。では、早速引用しよう。
寒卵どの曲線もかへりくる
ここからは加藤楸邨ゾーンである。前回、正確には前々回までは橋閒石ゾーンだった。いい観念性だと思った。まず一読して。そのあと、「かへりくる」はスタートとゴールがくるっと一周することを示していると同時にどの地点でもいいのはいいがどこかの地点でなければならないことがこの句の深みだと思った。あと、これはただの独断だが、ここで言われる「曲線」は卵の底付近から出発しててっぺん付近を通って底付近へ繋がる、くるりとした線であると思う。なんというか、「かへりくる」ためにはそれくらいの長さが必要なのである。別に腹(?)のあたりで横に繋がっていてもいいのだが、それだとなんだか、この句の魅力は薄れるように思われる。し、みんなそのような曲線を思い描くのではないか、と勝手に思った。あと、「あと」と言い過ぎて申し訳ないが、このように感想を書いていると、私が最近作った句、「天道虫あの点のあたり我住めり」は発想自体は似ていることに気がついた。ただ、加藤の句のほうが魅力的である。ただ、私の句もある程度修正すれば魅力的になる可能性を秘めているように思われる。
では、正木の鑑賞を読みに行ってくる。
なんだかいつも感じるキレがないような気がするが、以下のところはやはりさすがである。
いや、やっぱり全部引用しよう。「以下のところ」と呼んでいたのは一段落目である。
「かへりくる」とは、卵の表面上の一点から発した線が、卵を一周して元のところへ帰るという意味だろう。さらに、曲線というものは、向こうへ行ったきりの直線とは違って、たとえ遠回りに大きく弧を描こうとも、いつかこちらへ帰ってくるものだという広い意味にも取れる。強く意志的な直線に対する、しなやかな曲線の持つ、循環と回帰のなつかしさが一句の主題である。卵は生誕の象徴であり、曲線は卵の曲線であると同時に、女性性を表わしてもいる。
掲句は昭和四十二年刊の『まぼろしの鹿』に収められた、作者六十歳近くの作。初期に<鰯雲ひとに告ぐべきことならず><蟇誰かものいへ聲かぎり>と意志的な代表句を生んだ楸邨が、四十代に入って病を得、<木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ>と自分に言い聞かせる日々を重ねたあげく、老境を前にしてふっと明るく自在なところへ抜けた、そんな感じのする句である。楸邨は六十歳を前に自らの中にもようやく曲線のしなやかさを自覚したのかもしれない。
この少し前から楸邨は弟子の安東次男の導きによって古美術、ことに古硯への関心を深めているから、寒卵を掌にして曲線に見入っている作者は、もしかしたら名硯を見るような目をしていたのではないだろうか。
正直なことを言えば、私は二段落目に興味が湧かない。ただ、三段落目の見立ては一段落目の鑑賞を強く賦活するところがあって、こういうふうな知識なら、俳人に関する知識なら身につけてみたい、と思った。いや、「身につけてみたい」とまではいかないが、興味はある。そういう鑑賞法には。
「強く意志的な直線に対する、しなやかな曲線の持つ、循環と回帰のなつかしさが一句の主題である。」というところはいいと思ったが、「卵は生誕の象徴であり、曲線は卵の曲線であると同時に、女性性を表わしてもいる。」というところはなんというか、穂村弘の本(『短歌ください』(角川文庫))で同じように思ったところがあった記憶があるが、性急に思えた。別に「女性性」をテーマにするのはいいと思う(それも私は正直よくわかっていないが。)が、それをするべき必然性がわからないとノイズに感じられるというのも事実である。私にとっては。それを二段落目でなんとかしようとしていて、より必然的にしていて、私がそれに興味がないからそうなっているのだと言われれば別に反論はできないが、そうだとしても、それができたとして私が賦活されるとは思えない。頑固かもしれないが、意固地かもしれないが、そんなふうに思った。
なんというか、私の頑固さはたぶん、ある一人の人間よりもある一つの塊、人間もその一つに過ぎない塊に関するどうしようもない興味、愛着によって生じているのだと思う。これは私が何度も言っている、このシリーズで何度も言っている「集句」に関することでもあると思う。が、まだ書くべきときではないと思うのでそれは置いておこう。
「「集句」というのは連句から順番性を剥ぎ取ったようなもので、類句から分類性を剥ぎ取ったようなものである。」と私は第八回で語っているが、ここでの話はこれとも関係がありつつ、おそらく次の引用に示されるようなことに接続していると思う。
人が持つ問題とは、そうならざるをえなかったからこそ、「そうでなくてもよかった」という偶然性の表現でもある。問題が繰り返され、何かひとつの塊に見えてくるほどにそこから、果てしない広がりとして偶然性がまばゆく炸裂する。
久しぶりに哲学書から直接引用した。これも理由がある。気になる人は次の文章を読むといいだろう。では、終わり損ね続けているので今回はこれで終わり。